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恋愛経験

昨日の夜の出来事である。
もくもくの煙を浴びながらカウンター席で並んでホルモンを食べ、コンビニで買ったカフェラテを飲みながら秋の夜風に流されるように歩き、気づいたらその人の部屋にいた。
パチパチと鳴るキャンドル、サンダルウッドの濃密な香りとアルコールとカフェインで脳も神経も眼の奥も何もかもがぎらぎらして、その人が淹れてくれたルイボスティーは甘い白湯のようだった。

付き合っていない、男女。
たまに遊ぶ仲間内の、ひとり。
セミダブルのベッドにくたっと横たわると、その人は腕枕、と左腕を伸ばして目を閉じた。枕元で揺れるキャンドルの方に首を傾げ、ボヤだけは避けたいなぁ、と呟くと、それきり部屋は静かな呼吸音だけになった。
ベッドを軋ませ、一息でキャンドルを吹き消す。
夜に飲み込まれた部屋はひんやりと冷たい。街灯の青白い光がレースのカーテンを透かして、海底から水面を見上げているようだった。
その人の腕に、静かに頭を乗せた。
案外、ふたりとも焼肉臭くないな、とその人の腕と自分のニットを嗅いで思う。
すり、と近づくと腕が巻きついてきて、まるでそういうオブジェのような姿勢で私たちは固まった。その人の心臓は、私ごと壊れるんじゃないかと思うくらいに揺れていて、それなのに呼吸には少しの乱れもないのだった。人間の心臓の音と、呼吸の音を、こんなにも近くで聞いたのは久しぶりだ。
もう少しだけしたら、起こさないようにそろっと帰ろうか。でも、鍵が閉められない。どうしよう…
つるりとした脳の中でぼんやり漂う思考をゆるくつなぎとめ、なんとなく斜め上のその人の顎をちょっとだけ齧ってみる。生えかけの、1ミリくらいの髭、ざらざら。他にやることもないので、続けて何度か齧っていたら、その人が小さく笑った。
掠れ声が囁く。
「どこまでしていいの?」
どこまでしていいんだろうか。そんなこと、全然考えていなかった。
ゆっくり顔が降りてくる気配がした。指先でその人の唇をそっと抑える。
「口にキスは、付き合わないとダメじゃない?」
「そうなの?」
少年のように驚いてみせると、その人は足元の毛布を引き上げた。
寒くない?と私ごと毛布にくるみこむと、身体に巻きついた腕に力が入った。すべすべしたその人の黒いスウェットの胸元に鼻がぎゅうと押し付けられる。その人の体温は、私よりずっと高く感じられた。
「後悔はしてほしくないな」
「後悔?」
「こうなってること、とか」
閉じ込めるような腕の強さなのに、掌はとても繊細だった。指先がかすめるように、触れるか触れないかぐらいの弱さで私のニットの肩をなぞる。
後悔するかどうかなんて本当はわからない。するかもしれないんだな、うん、たぶん私はするだろうな、と思いながら、しないよ、するわけない、と笑った。こんな状況で、後悔してほしくないなんて、なんかちょっと野暮じゃない?
首をのばし、その人の頬に、おでこにキスをして、また腕に収まる。「キスして」と言うと、少し置いてから、そっと頬にキスが降ってきた。触れたんだかわからないくらいの、微かな唇の気配。毛布は既に二人の体温をめいっぱいに吸い込み、熱の塊と化していた。
「もっと恥ずかしいこと、する?」
上体を起こしたその人が、小さな声で呟いた。どういう意味かはわかるのに、驚くべきことなのに、なんだか全てがぼんやりと夢のようだった。
体重が、ベッドのこちら側にゆっくりとかかってくる。
色素の薄い瞳が、確かめるようにこちらを見つめていた。両腕を伸ばしその人の首に巻きつけ無言で引き寄せる。首筋に、唇が強く押し付けられた。
「服脱いだら、もう戻れないよ」
自分に言い聞かせるようにその人は言った。右手が私のワンピースを少し持ち上げ、ニット越しに脚に触れる。熱く強張った身体が、決して強くは触れない掌が、言葉以上にその人を伝えていた。
「私たち」
脚を擦り合わせ、言葉を飲み込んだ。その人はその姿勢のまま、しばらく私の言葉を待っていた。やがて、いつものような声色で、続き、言ってほしい、と言った。
「今、してもいいのかもしれないけど。今じゃない方が、もっと、よくなれる気がする」
…わかる?と言うと、わずかの間を置いてその人の身体がゆるんだ。首筋に顔を埋めたまま深く頷く。それは、めっちゃ、わかる、と。
「したら、きっといろいろ変わるよね」
「傾きは、できると思う」
「そこから、付き合うとか、あるのかな」
「…」
「私、あなたのこと、好きだけど、たぶん、このままだと、ちゃんと好きになっちゃう」
「…」
「私たち二人のためには、どうするのがいいのかなぁ」
独り言のような私の呟きを聞いて、その人は身体を起こすと、横でうつぶせになった。
「ものすごい、自己嫌悪。このあと、あなたを駅まで送ろうとか、そういうこと、考えてる自分がめっちゃ嫌」
そういってシーツに額を擦りつける。自分の、悪いところがめっちゃ出てる、と、呟いていた。
「どうするのがいいんだろう、わからないね」
「あなたのためを考えてしまう」
「私のことはいいよ。あなたはどうしたいの?」
真空空間のような沈黙。やがてその人は低い声で言った。
「俺は…できるよ。するのをやめるの」
「そう…」
好きになったら、おしまいだなあ。と私は思っていた。
追いかけ始めてしまったら、溺れてしまったら、本当につらくなるだけだ。その人は、私のことを好ましく思っていて、異性としても認識しているけど、それ以上ではない、のだ。しかし、それ以上でなくても、男と女は、一夜を過ごせてしまうのだ。そして、たった一夜で、心をすべて奪われてしまうことがあるのを私は知っていた。
もう何年も前、私は、同じような夜から泥沼にはまったことがある。そのときのその人が、それ以上ではないことはわかっていた。それでも、それでもいいから、と心が擦り切れても関係を続けていた。
それは、痛々しく、それだけにあまりに甘美な恋愛経験だった。
「もうそろそろ、時間なんじゃない」
その人は身体を離しながら言った。迷いを断とうとしている声だった。ふたりの間に冷えた空気が入り込む。
「もう少しだけ、首にキスして」
窓の外を走り去る車のライトが部屋を横切る。
「もう少しって、ずっとはないんだよ」
そう言いながら、優しく顔が寄せられた。ゆっくりと耳元まで上がってきた唇がピアスに触れる。ずきんと身体の奥が震えた。きつく抱きしめたその人の身体は、熱く強張ったままだった。
ああ、この二度と現れない、たった一点の座標のような夜を、私たちはこれから逃すんだ。私たちの意思で。突風のような名残惜しさに、何もかも押し流されそうになる。もう本当に潮時だ。
腕をほどき、静かに息を吐いてベッドに沈み込む。さっきまできつく抱きしめあっていた空間をすり抜けるように身体を起こし、帽子と鞄を拾った。
「帰るね」と振り返らずに微笑み、廊下へ通じるドアを開ける。蛍光灯の光が、残酷なくらい鋭利に地面を切り裂いた。
部屋からはまだ、サンダルウッドの甘い香りが漂っている。


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