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京都に隠された大革命。

春には桜、秋には紅葉と四季折々の顔を見せる京都。
「京都が好き!」「年に1回は訪れる!」という人も少なくないだろう。
人々を引き寄せる京都は、幾度とない存亡の危機を味わってきたそうだ。
にも関わらず、繁栄を続けた背景には、巨大な3つの革命が隠されていたという。
京都旅行の前に、知っておけば見方が変わること間違いなし!

琵琶湖の水を使った、京都の一大革命って知ってる?

京都、東山にある南禅寺。界隈には湯豆腐屋さんが立ち並ぶこの鎌倉時代に開かれた風流なお寺を皆さんはご存じだろうか。
南禅寺の中には、明治に作られた水路閣という巨大な建造物があり(下図)、かつてはその橋上に水が流れていた。

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写真引用:https://kawaii-kyoto.net/nostalgic/suirokaku/

ん、なんで水を流す橋がお寺にあるのか?…
この問いに答えられる人が何人いるであろうか。

この橋は、琵琶湖と京都を結び、
水運
を作るために必要な橋だったのである。

明治2年、1000年続いた都がこれまで続いた都が東京へ移り(東京遷都)、人口30万人だった人口がその3分2まで減り、嘗てのような活気が京都になくなってしまった時代があった。

そこで、琵琶湖疎水という”水運”を作り、
東日本や北陸からの物資を安定化させて再度復興させようと考えたのだ。
水運には、”水運”陸路に比べて短時間で大量にものを運べるというメリットがある。

明治18年から5年がかりで行われた琵琶湖疎水プロジェクト、工事は全工程が手彫り、当時の京都府年間予算の2倍もかけたという。
このおかげで、物資の安定に届くようになり、東京遷都後の人口も増加し、今日の京都の繁栄へと繋がっている。

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写真引用:https://matome.naver.jp/odai/2142232255859389101/2142232331660823603

人口が増加しただけでなく、明治24年には、疎水を使った日本初の水力発電所である、蹴上発電所もでき、その電気が京都に日本初の電車を走らせる。
さらに多くの工場が稼働し、この琵琶湖疎水によって京都は一気に近代化したという。

琵琶湖の水と京都を結んだ線路のこと、知ってる?

琵琶湖の水を使って、水運を行う…といっても並大抵な事ではない。
通常水運といえば、荷物を船に積んで下流に届ける。
ただここで、滋賀ー京都間の地形の厄介な面があった。
滋賀から京都の街に入る手前で、
船が行き来することができない急勾配があったのだ。
急勾配があると、すとーんっと船が落ちてしまい、
船へのダメージや積み荷の散逸、下った船上げるか等様々な問題が生じる。

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この難題を解決したのが、
大胆にも船をレールで運ぶユニークな仕掛けインクラインと呼ばれるもの。疎水が生み出した電気で動くインクライン(台車)にのった船は線路を一直線に下り、急こう配の下にある船溜まりまで運ばれた。

今日でも京都に行けばインクラインを歩くことができる(蹴上駅からすぐ)、そこには鉄道ファンにはたまらない貴重なくぎ(レールを枕木に固定するくぎ)がレールから顔を出している。

一つは、ドッグスパイキと呼ばれる、横から犬がレールを噛んでいるような釘で、もう一つは、亀のこうらのようなタートルスパイキである。

ドッグスパイキ(犬型)  > イギリス型
タートルスパイキ(亀型) > アメリカ型

製造元となった国により上記のようにくぎ(種類、名前)が異なっている。

ただ面白いことに、日本に最初に入ってきた(最初に疎水で使われたくぎ)が犬型(ドッグスパイキ)だったので、現在日本に広く使用されているのはアメリカ製のタートルスパイキだが、これを犬くぎと言っているようだ。

また、インクラインレールは、1887年製(イギリス、BARROW社)のものである。実際に、その製造日、社名などは現在もレールに調印されており、鉄道で75ポンドレールを使うよりまえにインクラインで初めて使ったのではないかといわれている。

蹴上駅からすぐに、野外レール博物館があり、だれでもこの琵琶湖疎水のレールや痕跡を見学することができる。電車に興味ある人も歴史に興味がある人も訪れて後悔はしないだろう。

明治時代にできた繁華街、新京極通って知ってる?

京都の繁華街といえば、新京橋通りである。
京都に行ったことがある人は、一度は訪れた事があるだろう。
京都でショッピングっといったら、
多くの人は河原町で降りてその周辺の商店街を訪れる。
そんな河原町駅の近くにある、新京極通りは明治5年に作られ、現在もなお京都を訪れる人々で賑わっている場所である。

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写真引用:http://www.re-adworks.com/business/aristo/kyoto/

なぜこんなに河原町駅や新京極通が、今の京都で栄えているのか、
疑問に思った人もいるであろう。
その新京極通りのあたりは、嘗て蛸薬師の境内(蛸薬師堂永福寺)だったのだが、明治5年になると、お寺や神社の境内を貫くように道が作られた。

ん、どうしてわざわざお寺の真ん中に?

実はそのあたりは複数のお寺が並んでおり、縁日の市が並んでいたとのことである。その当時は、境内は寄席や芝居小屋などが立ち並び、見世物小屋などが立ち並んでいたにぎやかな場所だったということだ。

東京遷都に伴い人口が減少して活気がなくなったことをきっかけに新京極通りにして、振興の勢いをつけようとしたとのこと。
立ち並んでいた寄席や芝居小屋などはその後、映画館となりそのあたりは関西随一の映画村になったという。

その名残を見れる1つがファッションブランドの「WEGO京都河原町店」。
WEGO京都河原町店は昔、映画館だったそうで、そのアーチ形状や映写室など映画館だったことの面影を今も残している。
昭和の初めの娯楽な雰囲気がまだ残っている貴重な場所である。

秀吉が残した京都大革命の跡って何か知ってる? 


豊臣秀吉が京都を土で囲んだ。
皆さんは、その歴史的事実をご存じだろうか。
1467-1477-応仁の乱の後、京都の街は結果的に小さくなってしまった。
その後、秀吉が天下統一して京都を首都にしようという段階になって、
小さい街が存在した京都をまずは1つに纏める、そのための線引きが土壁だったのだ。
範囲を決めて帰属意識を高るという目的だったのかもしれない。

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写真引用:https://www.travel.co.jp/guide/article/14012/


秀吉が作った巨大な土壁は、御土居と呼ばれており、京都をぐるっと囲っていた。
その長さは、23kmもあるが、なんと安土桃山時代にわずか4か月で完成したという。
今ではほとんど壊されてしまっているのが残念な点だ。
御土居の中が、洛中と呼ばれており(現在でもそう)、外が洛外にあたる。京都駅の0番ホームは御土居の上にあるという。

御土居の角は、自然の地形を利用しており、土木技術の能力の高さがうかがえる。この御土居によって町割りができて、今の京都になったとも言われている(所説あり)実際、旧土居町などは御土居の形を踏襲しており、興味深い配置をしている。

旧土居町の形状

キャプチャ

写真:https://www.google.co.jp/maps/place/京都府京都市北区鷹峯旧土居町/

皆さんも、歴史が詰まった京都旅行を楽しんでみてください。

本記事は、ブラタモリ(京都編)を参考にさせて頂きました。

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