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檄:往者不可諫
幸福は一夜おくれて来る。幸福は────。
同期が卒業していく。お勤め人として社会に出ていくらしい。めでたい。社会人は大人なのかな。
いま大人として社会に出ていって、自分のこともわからないまま社会に触れたら、きっと輪郭が分からないまま労働者としての自分に蝕まれて、純な自分の心をここに置いて知らずに落として捨てていってしまうような気がする。
肩書きが決まって、人のイメージが企業のイメージだとか言われて、自分が自分の体じゃなくなっていったら、もうこの先ずっと自分の体も心も得られないまま、ある時は勤め人、ある時は母親、とか役割をこなしていって、気づいたら体だけ年取っちゃっておばあちゃんになっちゃってるんじゃないかと思う。
役割をこなしながらも自分の輪郭を常に得られる人はいるだろうけど、それはどれだけいるんだろう。人の輪郭は小さい頃からおばあちゃんになるまで数珠繋ぎになっていると思う。今の20すぎの輪郭が欠如していて、40、60になった時の輪郭は本物だと言えるのかな。欠如していたら本物だっていう自信は私には無い。今の私を捉えられるのは今の私だけで、あとから振り返ったって、その時の自分とうまく繋がるように都合よく考えてしまう。その瞬間、その刹那に自分が感じた気持ち良さ、気持ち悪さ、痛みなんて編集し放題で、そんなのは自分に対して無責任だと思う。
自分のことさえなんにも知らないまま、自分のあり方に対してさえ責任を持てない人が、どうやって社会の中で役割を果たせるというのだろう。
私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。
こうやってうじうじして、ああ大人になりたくないとか言っていると、いつまでそうやってるんだ、って言う人だっているけれど、子供っぽいと言ってしまえばそうなんだろうけど。けどね。なんにも考えないまま、なんとなく自分の周りの人とか、社会の流れに身を任せて生きるのは楽だけど、つまらなくて、どんどん透明な存在になっていってしまうような気がして、そっちの方が子供ぽくまごまごしている今より、怖い。そんなにまでして生き急ぎたくない。そんなに早く大人にならなきゃいけないの?それは大人のふりをした子どもじゃないの?
放って置くのは、いけないことだ。私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘うそのないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。
腹痛を放置したまま山に登りに行きたくはない。
やりたいことがある時に、何かしらの役割がためにできないのは足枷があるみたいで嫌だ。おあしがないならまだわかる。ご飯だってそうだから。お金は目に見えるでしょう。それに縛られているのはしょうがないとしてもね、私が嫌なのは目に見えないものに縛られている感覚を持っていることなの。
縛られないためには、自分の輪郭をはっきりさせておく事だと思う。地に足がついているのと、足枷があるのは別だ。足跡がつけば後ろに道はある。後ろに足跡があれば、前に道がなくとも進む気持ちになれる。
明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。
幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。
どんどん遠く離れた存在に感じる瞬間がある。それが悲しいのは離れてるから悲しいんじゃなくて、流されていくのが悲しい。流されていくのを助けることもままならないのが悲しい。その川は、自分じゃないと泳げない、人のことは助けられないほど流れが急な川。
流れに逆らうのは大変だけれど、自分でちゃんと泳いでるからどこに辿り着いても納得できる。流されたら楽だけれど、みんな一緒にいるから寂しくないかもしれないけれど、辿り着いた場所でなんで流されたんだって後悔しても後戻りはできないし、その時手を繋いで一緒に流れていた人を責めるようなこともしたくない。
私は泳ぎ方は知らないし、泳ぐのが苦しいことも知っているけれど、辿り着いた先がどんな景色でも納得できることだけは知っている。
私は家を飛び出さない。堪えきれなくても家を置き去りにして飛び出しはしない。やって来るのを待ち続けてやる。
引用:太宰治『女生徒』
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