断じきる

その記号はただのゴミと断じきる。
自分にとって中々のハードル。

無意味な記号だけど、元は誰かの言葉だから。

確実に死ぬ高さから飛び降りる気分。
怖くて、でも飛ばないと死ぬから飛ぶ。
言わないと死ぬと思って。

殺されるんじゃなくて、
なめられたら殺すのだから、そうなる前に。
言わなくちゃ分からないから、言うのだと。


…とかなんとか御託を並べて、
放った言葉に責任を持つことが怖くて、
どう考えてもこのフレーズしか無いのに、
歌にまでしたくせに、
まだこうして説明を続けている。

ただの言い訳の4000字です。


いつ頃からでしょうか。僕の主観です。
テキストがメインの文化だったSNSに、
画像とハッシュタグが溢れだした頃からか。
映える画像を上げれば大きな反響。反面。
一部の言葉の質が著しく下がったと思います。

美しいものを愛するのは万国共通。
絵画は文字が発明される遥か以前、
数万年前から人の心を動かしてきました。
    画像。
思考から生まれる文字を必要としない投稿。
インターネッツのテキスト文化、
その延長線上に自由を作り出したSNSへ、
画像という圧倒的存在感を持ち現れた黒船。
その心臓蒸気機関のごとき圧倒的情報量に、
薪を積みかさねた文字は、
少しずつ火勢を弱めしかし灯は絶えず。

しかし画像が無いとなかなかバズらない。
それが一般的になったこっちの世界で、
言葉はほんとうに、本当に、真剣で、
人を殺してしまうほどの力を持っているのに、
ハッシュタグよろしく拡散の道具扱いをされ、
使い捨てされる文字が増えてしまった。
クズ、とか、カス、とか、ゴミ、とか。
個人的には、自虐に使うのも強すぎる言葉が、
使う者の覚悟を感じられないまま、
画像の存在感に負けないインパクトのために、
選ばれて大衆化し人口に膾炙している。
違和感。馴染めない。
当たり前に許せないささくれのよう。

画像の中の虚構。個人の思考。は、別物。
だからなのか、
綺麗な画像を上げるのと同じ感覚で、
覚悟なくポストされる汚い文字が溢れて、
あれはコロナ禍が始まった頃の2020年、
現実に人が亡くなったとのニュースを見ました。

顔が見えない反応の暴力。
暴力を使う側に覚悟が無いから歯止めが無い。
その中に、自身の倫理に鑑みて許せないと感じた、純粋な正義感があろうことは否定しません。正義感は、相手を殺してしまうかもしれない葛藤の中で、引き鉄を引くために必要な感情です。



引き金、という言葉を使いました。
向かい合う相手に引き金を引く勇気は、
殺す覚悟と引き換え
でないと引けないもの、ではないでしょうか。

でも、目の前にいない、向き合ってもいない、
会ったことの無い人に向かって、
電脳ネットワークの接続端で、
ガラス質のシールドに守られた向こう側から、
引き金を引く。
無責任な弾丸が人を撃つ。
これは快感でしょう。全能感でしょう。
ラクです。毒です。
相手は電脳内の記号ではないのに。
血も肉も備え、呼吸しているのに。

強く感じる言葉には、言葉が示すそのものに強い力が元にあるから、使って気持ちいいんでしょう。だから偽善は気持ち良くて、言ってる自分は100%正しく、言葉を向けた相手は100%間違えている。悪であると信じ込んでしまう。そんな危うさがあるので、正しく使わねばならないと本能で気付いているのだと思います。

それが思いやりだったり、
気遣いというものなのかな。
僕も未だ修行中です。

正論を言う自分は100%正しい、
と感じているのであればそれは、
相手に対する思いやりの気持ちが、
0%の状態になっている。
女衒なんて、身の上考えてたら出来ない。
思いやりがあれば出来ない。
同情は対象ではなく己への憐れみでしかない。
そんな所行、かもしれないとの自覚はあるか。

もちろんこれは、言葉に対し無責任な場合で、
向き合って使う場合この限りではないです。
無差別殺人と敵討ちみたいな。
ちょっと違うか?いや合っている何かが有る。


改めて言語化したらまあめんどくさいですね。
あーだこーだ言いながら自分の言葉を、
その瞬間瞬間しっくり来る言葉を、
頭の中をひっくり返してあーだこーだ考えて
やっぱりやめようやっぱり言わなくちゃ
その前にお前はどうなんだい?君はどうだい?
そんな自問自答しながら何とか言葉にして、
放つならば責任を持たないといけない。

そんな風に考えてしまうので、
SNS上での誹謗中傷によって、
亡くなった人のニュースを見て、
亡くなった事はよく知らないけれど、
その人に向けられた万の言葉は僕には、
どうしても許すことのできないものでした。




これは何だ?腹の中に気持ち悪い種を抱えながら、とあるブログで「ネットデブリ」という名詞を見つけました。放置され意味を無くし誰も手入れしないのにそれでも削除されないために有限なサーバの容量を使っている。インターネットに日々、蓄積され続ける削除されないだけのゴミ。
ゼロイチの記号でできたゴミ。

かくわたしもハードオフ巡りが好きなこの身。
所有者が不要になっても誰かにとっては有用。
もう更新されないと知っていても、
あの頃の文章を読みに、見つけに、探しに、
そんな風にしているサイトもございます。

そうしたお気に入りの文字と決定的に違うのは、
生み出した人の覚悟が感じられるかどうか、
そんな主観的な感覚に委ねられています。

だから、顔も知らない人が会ったことないであろう人へ向けての誹謗中傷も、ゴミと断じきるのには抵抗がありました。それは誰かにとってはもしかしたら、万が一、大切に扱われている言葉なら。同じことを自分もしてしまうのではということです。普段は思い出しもしなくても、ふとしたきっかけで思い出の場所を訪れてみる。その場所が無くなっていたり、ゴミ捨て場になっていたら悲しい気持ちになるでしょう。だから。
事あるごとにそのフレーズを反芻して、
これしかないと感じながら通勤、帰路に着き。
日々の生活で悲しいニュースを忘れても、
腹の中の気持ち悪い種は消化されず、
いつかいつかと思いながら、
それでも断じきる覚悟は定まらず。
電脳の世間の中で、フラフラしておりました。


それでも、
「ただのゴミ」というワンフレーズを、
楽曲にするほどのエネルギー溜められず、
新型コロナが五類となり、
制限されていた人の動きが溢れる世となり、
エンターテイメントも、
息を吹き返したかのように、
人が集まる場所には人が集まるように戻ってきて、離れていた人は当たり前の顔をして戻ってきて、待っていた人はなんとなく安心感を感じられる日々のなか、室町期の武士を描いたバンデットという漫画の中の有名なセリフ、「なめられたら、殺す」しかないとはらわたが煮え繰り返る話を聞きました。

詳細はここに書いても詮無いことなので伏せますが、言うなれば傲慢、アーティストに対する敬意の欠片も感じられない行動と発言、もちろん主観ではありますが、人間を10年もやれば発言と行動は表裏一体と身体で感じられるものだと思います。その高慢な態度は恐らく、自身が愛してやまない芸能人を頂点に据えているがため、その他は自動的に「以下」にしかならず、愛してやまない芸能人が見せた素晴らしいパフォーマンスこそが最高のエンターテイメントであるから、自分を届ける必要はなく、その他の価値観を認める必要もないという行動原理が根本にあるのでしょう。けれども、見た目を取り繕うために企画を打つ。

アーティストを応援する会社であると、
美しく聞こえる立て付けを添えて。

けれども、根本、他を応援なんかしてない。
尊敬しているなら、礼は滲み出るものだから、
高慢な態度になどなるはずがないのです。

会社だから、利益、結果を求めることを否定しません。であれば、正々堂々とまだまだ始めたばかりでお金が足りない、結果が欲しいと言えば良い。
力不足を認める度量がないから、ぺらぺらの肩書きで商品となるアーティストの、創作の根源となる人間性を否定してしまうんです。大変厄介なことに、否定している事に気付くこともなく。

なぜか。
自分が愛してやまないアーティストが頂点。
そのような価値観を持っていること、
そして人への態度に表れていること、
痛々しい事に、それが透けて出ていることに、
全く気付かず、自分がイケてると思っている。
その他の価値観を全て見下している。

自分が100%、反対に向かい合う人はは0%です。

何を言っても、分かってはもらえない。
こちらの言葉はゼロなので。
100、自分の中で完結している。
自分は100だから周りは0かマイナスです。
そして立派な綺麗事の城が出来上がっていく。
自分しかいないハリボテの。

彼にとっての完全な城の中、
そこから出てくる気配はない。
安全圏からの絶対的暴力、ICBMのような、
この世で一番卑怯な兵器を、
平気で無自覚に扱ってくる。

こうした人は、こちらも覚悟を決めないと
分からないんだと諦めたのです。
俺はなめられたら、殺すと考えているぞと。
こちらは敬意を持って接しているのに、
勘違いして見下してくるならば、
それを受け入れられる器は僕には無いと。


出来るならば波風を立てたくない、
日々穏やかに過ごしたいと思っても、
それを守るためには示さないといけない。
示さないと外の世界は分からない。

だから覚悟を決めました。
人によっては、聞き苦しい曲になるかもしれない。それでも、このままなめられたままいるよりも。なめてかかってくる記号は殺さないと自分が死んでしまうから、作るぞと。
お前が責任ももたずに電脳世間に流してる限り、
それは言葉ではなく、文字ですらなく、
意味の無い記号だと。

誰の心にも残らない。
ことばに釣り合う覚悟が無い、その言葉は、
うわっつらの薄っぺらだから、

意味の無い記号、誰にも伝わらない、
ガラスの下のただの点の、塵のあつまり。
ただのゴミだと断じきる曲を作るぞと。


そして1週間でできた曲。
まだ2回しかライブで演奏していませんが、楽しんでもらえる人が居てくださってほっとしました。
僕の中では歌う自分がゴミだと思っています。
そう。同じゴミだから、
ただのゴミと断じきる。それ、ゴミよと。
綺麗に掃除しないとまた集まるから、ゴミが。

それは僕の心にも、周りの人の中にも、
電脳の空の下、
記号から少しずつ、
誰の目にも留まらないのに、溜まるだけの
ただのゴミになる。

掃除のつもりで一心にギターを弾きます。
阿弥陀さまなら、それも救うのだろうけれど、
修行中の身では、掃除が精一杯です。

ここまで読んで頂きありがとうございました。
願わくは、曲の終わりにあなたの心が少しでも軽くなりますように。

いいなと思ったら応援しよう!