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映画感想戦『怪物』

何処にもいないし、すぐそばに居る。
ソイツは他人の影に潜み、私の心臓の裏っ側に住んでいる。

 ⚠️ネタバレ有り⚠️

面倒なのであらすじは各々でご確認をば。
私は映画の作りやら何やら明るくないので感じたことを感じたままに、あるいは自分なりに分析して感想を述べようと思います。

子を想う母親、糾弾された教師、秘密を抱えた少年……それぞれの視点から描かれる三部作の構成が見事でありました。このような構成を羅生門というらしいですね。ひとつ勉強になりました。

こと今回の『怪物』という作品においては視点が変わる度に主人公の心情に沿って事件の内情を知る形になっています。
母親から見た息子は母思いの良き息子であり、彼の幸いを一心に願うが故に彼女が“怪物”と断じたのは教師。
しかし一転して教師の視点ではヒステリックに詰る母親、そして己が無実を信じない同僚や校長たち、子供たちの無邪気な悪意こそ“怪物”じみている。
渦中の少年にとっては母親の善意や理想、同級生との価値観の違いと多少の軋轢、自らへの疑念や不安感、形がなく言語化も難しいものが“怪物”と言える。…

私が非常に感動したのはそのカメラワーク、映像の仕立て方です。
創作における主人公という役割は基本的には善なるものだと捉えられがちと思っています。完璧な聖人君子ではなく、多少間抜けで汚いところもあるけれど、世間一般的なモラルがあり懸命に日々を生きている主人公は愛される。なぜならその作品における観客の代わりとなる人だから。見る人は多少なりとも自分に善性があると思っているからこそ「良い人」の目で物語を追うもの。物語に入り込む要素として共感や感情移入ができあがる。

三部構成と言った通りそれぞれの主人公に焦点を当てた…というより、その主人公が見たいものを見て聞きたいことを一緒に聞いている感覚が強いと思いました。
過去を思い出す時、私は出来事だけを思い出すのですが、印象の強いそのシーンだけを思い出して、それ以外は曖昧になります。会話の内容はある程度覚えているけれどどうしてその話になったのか、相手はどういう表情や仕草でいたか、天気は、季節は、気温は。…
連続性のあったものを思い出す時、絶対に断片的になる。これを読んでいる人がどうかは知りませんが、同じ感覚を知る人がいれば多少分かって頂けるかしら。映画の構成がこのように記憶を取り出して順番に、少しのミスリードを含んで引っ付けているように思えました。
だから母親の視点では家にいる息子が頻繁に登場するのに息子の視点では母親がおまけのように登場する。教師は母親がヒステリックな人間に見えるし、子供たちが得体の知れない生き物のように思える。他での登場は少ないのに息子の視点では星川くんが中心のように映る。
同じ時間軸を生きていても思うことも考えることも全部違う。それは当然ですが、その当然を描く映像作品は思ったより少ないと感じます。だからこのように分かりやすく表されると改めて人間の多様さ、多面的な部分を知ることができました。

加えて、人間の視覚と記憶の情報処理について。
これも映像作品に表せるとは思わなかったところです。
人間の脳は非常に自分に都合よく出来ていて、自分にとって有益か否かで判断するものです。だから勝手に判断したものしか見ないし覚えないし、関係のない事柄を繋げてさも事実であるかのように記憶する。間違った解釈であっても脳にとってはどうでもいい。極論、その解釈を持っても自分が健康により良く生きられる、あるいは自分に全く関係しないなら改めることをしない。

例えば劇中の火災シーン。
ライブ配信したコメントの中に「あそこのビルガールズバーあるよね」というような発言がありました。事実を言ったまで、そこに悪意や野次があろうと発言自体に問題はない。
そして若い男性が画面に映り、配信主の小学生は先生と呼ぶ。男性は早く帰りなさいと見知った口振りで叱る。彼は恋人らしき女性と連れ立って、小学生がお持ち帰りかと揶揄する。
ガールズバーの近くを通りがかった男性が女性と歩いている、その事実だけなら問題は無いのに、「教師がガールズバーに通っているらしい」という噂が生まれる。
多数の人間による想像力の欠如と思い込み、責任感のない好奇心から悪意が滲むのです。ひとつひとつの発言は小さく、取り留めのないものかもしれんが、元の事実を捻じ曲げ、改変し、愉快がって悪意として拡散されていく。
「日常的に使っている帰り道なのではないか」「火事が気になって見に来たのではないか」「女性は恋人かもしれないし、友人、家族、同僚、他の関係性があるのではないか」など、想像する余地はいくらでもあります。しかし大多数の無関係の人は想像したところで、もしくは想像しないところで、どちらにせよ影響はないから責任もない。だからこそ世間は曲解するし、身近な人間は世間話としてネタにする。
この描写をごく自然に、淡々と映像を映すだけで表現する手腕に大変感動しました。

何よりもうひとつ、「怪物だーれだっ」ということ。タイトルであり、物語の要となる“怪物”とは誰なのか。何を示唆しているのか。
…と色々考えながら客席に座っていましたが、実は劇中で“怪物”という単語はほぼ出てこなかったように思います。湊と星川くんが遊んでいるシーンやそれに使ったカードくらいなもので、他のセリフには出てきません。(あったら記憶違いですごめんなさい)
つまり明確に言われてはいない。
誰のセリフにも「こいつが怪物です!」と明言することは一切ありません。
しかし最後まで見ると、“怪物”の影は色濃く、湿っていて、重くのしかかるように存在していると感じました。ソイツは何処にもいないようで何処にでもいる。人の形をしているかもしれないし、姿形はないかもしれない。他人の影に潜み、私の心臓の裏っ側に巣食っている。誰もが悪くて、誰もが悪くない。
あえて明言するとしたら母親の理想がプレッシャーであったこと、少年のその場しのぎの嘘、いじめ、虐待、学校の隠蔽体質、固定観念や先入観。…
どれほどでも名前は付けられるのでしょう。

タイトルと予告を見た時から「誰かが怪物だ」と思って見ていました。だから母親の視点では担任の教師や学校が怪物なのだと思ったし、教師の視点では隠蔽に動く学校やゴシップに踊らされる人々、離れていく恋人が怪物なのかもしれないと思いました。星川くんというキーパーソンが登場して「ワンチャンこの子がサイコパス的な子なのか!?」と邪推して、けれど息子の視点ではもう誰も憎く思えませんでした。誰もが少しずつ間違えているけれど、ひとつひとつを取って言えば大したことはないように思える。それこそが恐ろしい。先入観を持って見た私を含めて、世の中の人は皆、身の内に怪物を飼っている。


そしてもうひとつ。
セクシャリティと葛藤について。
私自身も特殊な恋愛観を持っている人間なので色々考えました。しかしそれを否定されたことというのは実はあんまり無い。家族は他者の性嗜好に興味はなく、友人には理解がある恵まれた環境で育ったから。小学生の時分から同性愛を主題にした漫画を読んでいましたし、友人らも嗜んでいたので抵抗がないのでしょう。成長するにつれて世の中にはLGBTQと区分される人々がいることを知りましたし、世界人口70億超えてるんだからそういう人がいたっておかしくないよな〜と思っていました。自分の恋愛観を話す人は選んで話していたので、理解はされずとも「アそう」と受容してくれる人が多かったのもあります。
これは社会が成長したとも言えるのかしら、と思うのです。
世間一般的に同性愛に対して忌避感があるのは当然で、悪しように言えば自分と違う「普通じゃない考え」を受け入れることは難しい。けれど同性愛を主題にした、あるいは描写を絡めた創作が世に出ることで親しみやすくなるのは事実です。受け入れること、受け入れられることが難しくとも、「アそう」と言ってくれるだけで救われる人間がいる。「そういう人なんだね」と一個人として認められることで息がしやすくなる人間がいるのです。心の内はどうとでも思えば良い。肯定せよということではなく、攻撃的になるなということです。それだけで世界は少し優しくなる。

ラストシーンの緑と、駆け回る湊と星川くんは何を思うのでしょう。
あえて生死を曖昧にした描写は、辛かった。けれどとても美しかった。眩しくて涙が出ました。彼らが彼らとして周りに受け入れられ、自分を受け入れることができたならどんなにか。
生きているならこれからどうなっていくんでしょう。彼らを虐めていた少年たちはどう育っていくんでしょう。保利先生はどうなるんでしょう。お母さんはどうするんでしょう。学校の体質は変わるんでしょうか。大人たちはどう受け止めるんでしょう。何も気にしない人々はきっと居るんだろうと思うと、なにだか虚しいなぁと思います。

良い映画でした。
全人類見ろ。

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