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ヒカリノオト ⑬




冬至の頃に書きかけて
気がつけば
だいぶ時間が経ってますね

まあ、でも
続けてみます。






    ∞           ⌘           ∞    







闇の極
冬至

過ぎましたね




痛いほど
澄み切った

光 そして 空気

ですね



人が 
何かを
その身体を通して

体験する


体験というものの
ひとつひとつが

水に
一滴
何かを落とす

そのようなものだと
仮定したら


コップ、バケツ、池、湖水…
そんな任意の水の集合

そこに
水を一滴
おとす

誰もが簡単に
イメージできる
それに似て

滴下されたところから
円が生まれ
波紋のように
広がり
やがて消えてゆくのか

連立した飛沫を出現させ
落下は
さらに新たな飛沫を現し
消えてゆくのか


インクのように
流動し
色や形を休みなく変えながら
最後は全体に溶けるのか

たしかに
異質な
色のついた何かを滴下しても
透明なままなのか

この時
透明は
滴下前と同じ透明なのか


痛いほどに
澄み切った
光を見た

全身が
消毒されるような
冷え切った
空気を吸った

瞬間的な
この体験をする

前と後の
自分は
一個人は

同じ

なのか




体験と呼ばれるもの

瞬間的で
ミクロなものから
長期的で
マクロに属するようなものまで


それは

どこにあるのか



気が遠くなるほどの
おびただしい
無数の
体験



それは
積み重なっているのか

摂取や排泄のように
何かが残され
何かが排泄されていくのか

どこに?

どんなふうに?

なぜ?

なんのために?





          *        *        *





辻さんと中学生の話に戻りましょう。


「 靴紐が結べない 」

両手が問題なく使えるとしても

・上手に早く靴紐が結べない。
・結ぶことはできるが、面倒だと感じる。

このような人は沢山います。
むしろ、上手に結べて、面倒とは感じない人の方がレアかも知れません。

比較的日常化していて、ほとんどの人が直面する、
ある意味、課題、お題。

「靴紐を結ぶ」

このお題との向き合い方や対応。
人それぞれ、様々でしょう。

○結ぶ手間を無くした特殊な形状の紐。
○何度も結び直さなくてよい
ゴム状の靴紐。
○靴紐のない靴。

他にもあるかも知れませんが、
靴紐を結ぶのは面倒
だと感じたり、
老化や怪我など、
靴紐を結ぶ行為に困難や苦痛を感じる場合に、
上記のものを選ぶことで、解消される部分があります。

特殊な形状の靴紐や、ゴム状の靴紐などは、
必要とする人が相当数居るから、すでに存在しているのでしょう。

辻さんにとって、靴紐を結ぶことが多くの人と比較して、
困難と苦痛を伴う行為であることは明白です。

でも、辻さんは
「靴紐を結べるようになった」

しかも、両手が使える人と同じくらいのスピードでできるようになった。

そのことを、とてもうれしそうにお話しされていました。


このことは、ある意味
トポロジー的側面もあるかもしれません。

カップは上から見ると○
横から見ると□
「どちらも同じカップです」
というような。


「靴紐を結ぶ」
という日常的に存在し、
多くの人が直面、対応している、
したことのあるお題。

これが、辻さんにとっては
陸上競技でタイムを上げることに匹敵か、
それ以上に格闘しがいのある達成感や
喜びをもたらすものであった。

「靴紐を結ぶ」
このお題が目の前に現れた時に、

それを どのように位置づけるか

そして

それと どのように関わるか


『 物事をどう捉えるか 』



なぜ そのように捉えるのか

その理由やいきさつは様々で
正解も順番も無いか
ランダムなのだとしても

「 捉え方 」
ここに
何かありそうだということは
言えそうです。


カップは日常的に存在している、
使っているし、
よく知っているもの。
そして、当然カップは○。

辻さんの靴紐のお話は、
そのカップの全然違う側面や、
使い方を見せられたような感じかもしれません。


      *


ひとりの人間 一個人に
日常的に
投下
滴下されている
雫のようなものが

実は
無数にある

ある角度
ある視点からだと

それは
存在自体
認識されない

そこには
何も無い

或いは
別の名前、色、
形を与えられた何か

視点が変わるだけで
それは
無から無数
無限にある何かにもなってしまう

日常は
起きている出来事は
同じなのに。


                    *


辻さんは
「髪をひとつに結ぶ」

このお題にも怯むどころか、むしろ喜びを持って挑み、
見事にクリアしたと報告されていました。

両手が使える人でも、
見えるわけでは無い、
頭の後ろで髪を結ぶのは
身体機能のあらゆるものを
実は駆使して行っています。

結構、複雑な動きを必要とする行為と言えそうです。

髪はすべったり、一部を取りこぼしたり。
身体全体の繋がりからの腕や
手指の動かし方。
タイミングやスピード。

その日の湿度や髪のコンディションでも結びやすさは変わります。
両手が使える人でさえ。

「結べたことがあります」
「結べる時もあります」
ではなく、
「結べます」
と、辻さんが言えるようになるまで、
どれくらいの時間がかかったのか、何をどうやったのか。

辻さんのお話しを聞いた中学生達は、想像したはずです。

想像してしまっただろう

と言ってもいいかも知れません。



「髪をひとつに結ぶ」

日常的にそれを可能にする。

このことは、片腕の無い状態の人にとっては、
「 奇跡を起こす 」
「 不可能を可能にする 」
ことに挑戦するくらいのことだと言えるかもしれません。

「奇跡」 「不可能」
そういった言葉を
ほんのちょっとでもイメージする時

「奇跡を起こす」
「奇跡が起きる」

「不可能を可能にする」
「不可能が可能になる」

それに付随しそうな経過や結果も、曖昧でなんとなくのモノではあっても、いつの間にかくっついて、セットのように、自動的にイメージしてしまう。

自分も含めて、あるひとつの言葉をイメージする時に、
どれくらいのものを実際に内包しているか。
何をくっつけたり、セットにしたりしているか。

明確に、正解に把握する

これは、ほとんど不可能なのではないかと思います。



「髪をひとつに結ぶことができるようになったお話し」

これは、かけていた色つきメガネを外されるような、
上からしか見ていなかったカップを、横から見るような

そんな、ちょっと
ハッとさせられるようなお話しだったのではないかと思います。

そして何かが
明るく軽くなり、ホッとする感じもあったのではないかと思います。


「靴紐を結べるようになる」
「髪をひとつに結べるようになる」

これらの、

奇跡を起こすようなこと

不可能を可能にすること

言葉にすると、なんだかとても勝てそうにない、挑戦自体が無謀で無意味に感じるラスボス感満載ですが、

・出来なかったとしても、別にどうとでもなる。
・挑戦してもしなくても、よさそうではあるが、完璧クリアはおそらくハイパー超難。


中学生達の中には
いつの間にか
トポロジーが増えて、オセロになった子もいたかもしれません。

○が□って
他にも沢山あるな…と。

そうなった時、これまで見てきた慣れ親しんだ風景も、時間も、今目の前に見えているものも、全部が一瞬にしてパタパタっと、まるで違う何かに変化したかも知れません。

おそらく、思いがけず。


      *


辻さんのお話を聞いたことで
ひとりひとり
一個人の中で起きたことは

今まで見えたり感じたりしていた世界が、
オセロのようにパタパタっと、
別のカラーや印象に変わってゆくようであったかもしれないし

これまで経験してきた、
何かの出来事がふと浮上したり、
有機的に動き出したり、変形するようなことかもしれない

何にせよ

辻さんのお話しを聞く
その「一滴」が
一個人
それぞれの中で
それぞれに何かを起こしたり
動かしたり
してしまったのでしょう。

それは、一個人の中でも
起きたし

ググっと引いた場所から見ても
大勢の中学生という水面に
辻さんのお話しが滴下され
何かが、ハッキリと

起きて
動いた

それを目撃できたような
ことでもありました。



     *



運動が苦手だったり、
自身を含め、身近にも身体的に何か困難を持つ人もいない。

そういう子も入り混じった状態。
そもそも集団状態で長時間、
集中して講演を聞くことが難しい年齢。

そういう集団に話しを聞いてもらう。しかも集中状態で。

話すことのプロでもなければ、
人間心理研究の大家でもない辻さんが、あっさりと軽やかにやる。

これも、ひとつの「奇跡」かもしれません。



     *



これまでの記事で、何度か

「 人が人に作用する 」

ことに触れていますが、

そもそも「人」「人間」って、何なのか?


肉体を伴って、この地球上に生きている間だけの状態であれば、
「人間」とは呼べない状態の人も多い。
むしろ、そういう人がほとんど。

だから

「人間になりましょう」

松村先生は仰られています。




つづきは

2025年に!









最近チバさんモードは消えてます。
また、登場するかも。









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