ヒカリノオト ④
謎
という「名前」をつけたくない。
そう呼びたくはない。
そんなものも
ありますね。
あれは
「これだ」
「こういうことだった」と
はっきり言えない
にもかかわらず
歴然と
確固たるものとして
「自分」とか「この人生」
の一部
欠けてしまうと
それは「自分」でもない
「この人生」でもない
いつのまにか
そんなものになってしまっている
そういう 何か。
以前
ある人とやり取りをする
機会に恵まれて。
その人は
その人にとっての
とても大切な話しを
してくれました。
語ってくれた話の中には
話しを聞かせてくれた
その人も登場する。
そこに登場する人達
それぞれの
背景や繋がり
それぞれが何をして
その時
何が起きたか。
話しを聞いて
自分の中に生まれた光景。
こんな
こんな光景
自分の人生の中には存在しない。
観てきた映画のなかにも、
どんなに素晴らしい小説も
音楽も届かない。
届くなんてことが
あってはならない。
それは
あまりにも
かなしくて
せつなくて
うつくしい
その話しを聞かせてくれた
その人とは
当時はまだ
そこまで親しかったわけでもない。
「だから」なのか
それは無関係なのか
それは、わからない。
ただ
話しを聞いた。
そのことを通して
自分が見た光景。
色
温度
音
匂い
そこにある光
何でもない瞬間に
ふと
浮かんできたり
よぎったり
滲んだり
漂ったり
そのことは
その話しを聞いた後の
自分の
何かを、どこかを
幾度となく
あたためたり
清めたり
してくれた気がする。
言葉は
全然届かないのだけれど
自分や
自分の人生の
どこか1箇所とか
一部分ではなく
「そうではない」
ということだけが
ハッキリとわかるかたちで
「いのちのようなもの」
を与えられた
としか、言いようがない。
話しを聞いただけ。
そこまで親しく無い人から。
そして、
その話の中の人は
全く知らない人達なのに。
自分という"個人"や"肉体"。
それとは全く繋がりや
関連性がないのに。
ただただ
どうしようもないくらいに
かなしくて
「うつくしいなにか」
この
「うつくしいなにか」
に似ている
或いは、匹敵する
力をもつもの。
同じように、作用するものを
自分は自分自身の中に見つけられない。
わたしという人間が
特別なのではなくて、
多かれ少なかれ
思い当たる経験を持つ人は
いると思う。
人は皆
そのようにつくられている。
「認識」
というレベルに上がってくるもの。
そこから
何をどのくらい拾い上げるか
時と場合によったり
個人差があるだけで
人は信じがたいような
驚くべき
目を見張るほどのシステムを
誰もが
それこそ、もともと
標準装備している。
システムは誰もが
もれなく
持っていて
一個人の中でも
生きている間
それは稼働し続けている。
「内臓の働きを
日常的に実感することがない」
何かのお話で聞いた、松村先生の言葉。
それ(例えば内臓)と同じように
「わからない」
「実感がない」
だけで、
何かはいつも動いている。
それは
「信じられないくらい」
だったり
「恐ろしいほどの」
だったりするかもしれない
数 や スピード
なんだと思う。
そんな
システムを標準装備した
人と人が 出会う。
人が人に 作用する。
松村先生は、
人は
肉体を持っている間だけでなく
その前も、その先もあり、
肉体を持っている間も
複数のものが
「その人」「一個人」に
重なっていると、お話されている。
そのことと関連があるのかは、
まだちゃんと理解できていないので
少し、横に置かせていただくとしても
人と人が出会った時
こんなふうに
作用するように
その可能性を持たない人など
ただの一人も漏らさず
この世界のどこにも
いないように
つくられている
このシステムは
どこまでも
果てしなく
やさしい
そして
あまりにも
美しいと思う。