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マスターデザイン #1
約一ヶ月ぶりの『マスターデザイン』についてのnote更新です。
今週末から本番です。
ご予約いただけたでしょうか。
公演詳細はこちらから
https://fumenkaiga.wixsite.com/fumenkaiga/current-production
Peatixとの相性が悪かったりする方は、ご連絡をもらえれば、こちらでご予約しておきますので、ぜひどうぞ。
さて今回ですが、6/3〜6/15まで稽古場を開放して、いらっしゃってくださった方たちと色々なことをトークするという場を設けていました。
その時に、熱を帯びた話や、私が思ったことについて少し膨らましたことを今回のnoteとしたいと思います。
少し作品のことに触れるかもしれませんので、見たくない方は、今回の公演をご予約したのちに、私のほかのnoteや譜面絵画のブログもご覧になっていってください。
noteのおすすめは
テキスト『マジックワード』
https://note.mu/3284ryota/n/n46621b90f01c
夜中を泳ぐ散文的な文章です。
個人的に好きです。
譜面絵画のブログはこちらから
https://fumenkaiga.wixsite.com/fumenkaiga/blog
『プロムナーズ』のご予約はこちらから
https://fumen85.peatix.com/
それでは、今回の本文に入りたいと思います。
日付順に追っていきますね。
最初は
6/3(月)
この日がもちろん稽古場開放の最初なので、ここで初めて出てくる言葉が多く、この日以降の稽古場開放で挙がる、話題の源流となるような話がたくさん上がりました。
特に大きなものだと、
・原風景について
・都市に振りつけられている?
の二つです。
前者は、『山と人と暮らし』という作品を担当する小見くんから出た話題です。
自分の原風景を思い出そうとすると、純粋に懐かしくなることができるということに加えて、どこか傾向として公園や海、山と言ったものが多いことに気付かされます。原風景という言葉には自然回帰的な意味が含まれている部分があるように思うのでそこが影響しているのかもしれませんが、やはり自然系のそのような事柄が多く挙がっていた印象でした。
ただ、中でも、都内で生まれ都内で育った人の話が出た際に非常に興味深かったので、個人に配慮しながらふわっと書きたいと思います。
その人は、都内出身で、都内で育ちました。
その人の原風景は路面電車だそうです。
他の人の原風景は、自然ベースであったり、自分もそのようなものが原風景なのかなと感じていたので、驚きました。そして、ここから話は膨らみ、路面電車が原風景と言ったこの人は、「自然というものは、公園のイメージ」ということも言いました。それに加えて「すでに自然がある場所が公園なんじゃなくて、自分が馴染んでいる公園は自然が作られた上で公園となっている」という話をしてくれました。これが私には興味深く、作られた自然という存在について意識が及ぶようになりました。緑道や植え込みとは別で、作られた自然は自然なのかということです。自然という言葉の中に、木とか石の意味と、性質とかの意味が含まれているから言葉遊びみたいになってしまっているところはありますが、とにかくこの日以降、「自然との距離感」についてを考えるようになりました。
この日はそのあと、「自然との距離感」についての話が膨らんでいき、自然と生活は、淡くつながることが良いんじゃないかということなどが挙がりました。
大きく分けたもう一つの話題、「都市に振りつけられている?」についてです。これは、シアターコモンズというイベントで、ディレクターの相馬千秋さんがメッセージとして書いていた文章から引用しました。
強く納得し、もっと実感や例とともに自分に落としこみたく、ワードとして挙げました。この日以降もキーワードとして出てくるようになりました。
6/4(火)
原風景の話が継続して行われました。ここで挙がった興味深いことは、デジャブとかとはまた違う単位で、「似たような景色を見ると、原風景を思い出す」という話でした。
常に原風景をストックしているわけではないと思いますが、「あ。ここ懐かしい」と思う時は、似たような景色を見たり、そのような状況を体感して、「あ。懐かしい」と思っているはずです。それが原風景なのかはまた少し話が違うかもしれませんが、確実に「原風景」と「懐かしい」には、自身のルーツが根幹にあるはずだと思います。「あ。懐かしい」を引き起こすキーワードとして「シンボル」という単語が挙がりました。山や高い建物、珍しい建築などがシンボルにあたると思います。
6/8(土)
ひとり遊びについての話になりました。
小さい頃、ひとりでどんな遊びを発明したり発見して遊んでいたのでしょうか、という話です。
そう言えば自由帳はどんな感じに使っていた?ってことが盛り上がりました。
他にも指遊びだったり、具体的なものだとビーズアート、ブロック遊びなどが出てきました。
自転車の遊び方で、後ろのアミアミのところにサドルからお尻をずらして乗ることをしていたという話になり、ハーレーとかのバイクを想像していたり、ただ、違和感を楽しむためにそうしていたということが挙がりました。ここには大きな違いがあることに気づきました。それは想像力の行使の仕方です。私は、お尻をずらすこともしつつ、その時に流行っていたアニメの真似をしながら、頭の中で敵と戦っていました。
自転車自体に想像を施すのか、自身に想像を施すのか、自転車と自分が総体となり、世界全てに想像を施すのかで、全然意味が違うということに辿り着きました。
6/10(月)
この日は、ちょうどいい関係性とは何かという話が白熱しました。
ツイッターにも書いたのですが、それに補足を加えつつここでは書きたいと思います。
語弊があるかもしれないこと、私の解釈が違う可能性があることがありますので、何かを蔑んだり貶める意図がないことをご理解ください。
以下が、私が6/10にツイッターで投稿した文章です。
たとえば個を尊重していった結果、滅亡の一途を辿るのは、辛いかもしれないがまあ一旦それでも良いとして、それに対し言語じゃなくて、答え?を与えてくれるのが芸術の役割で存在理由じゃないか、突き詰めると。
つまりじゃあ生きる意味とは何?まで流れ着いたなあ
ここまでです。
個を尊重して行ったらという話題は、ジェンダーにまつわる話です。
芸術の役割については私が勝手に腑に落ちている箇所です。
最後の一文。つまりじゃあ生きる意味とは何?まで流れ着いた。というところを補足等していきたいと思います。
まず、ジェンダー論的な話から始まりました。どんな人がどんな人を愛そうが良い。それが同性だろうがもちろん良い。これは当たり前です。そもそも恋愛は男女間だけで行われるべきというのはおかしいですよね。これを確実な基準として話を進めます。このように男女の恋愛が区別されなくなった背景とは別に、事実としての少子化が進んでいます、この国では。もちろん理由はもっと複雑ですね。(ちょうどここら辺の時期に、「女性は3人子ども産んでください」発言がありました。)
それでは、じゃあ、私たちは子どもを産み、育て、次の世代につなげることが、生きる意味なのでしょうか、使命なのでしょうか、と言われたら、「うーん」となる人もいれば、「するべきだ」という人がいるかもしれません。ただやはり、強制はされるべきじゃない。そうなると、複雑な理由のもと少子化が起きることが納得できるような気がします。もちろん未来のことは分かりませんし、男女問わず愛し合えることがようやくオープンになってきたせいでもなく、ただただ、純粋に、人の数は減っていき、人類はゆっくりと滅亡していくのではないでしょうか。さて、そうなることは私たちにとって良いことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。二項対立で考えるべきではなく、そのまま行く末を見守っているべきなのでしょうか。無関心で良いっちゃ良いんでしょうか。
という内容を濃縮したつもりなのが、あのツイートです。
この日は、この話題で強く盛り上がりました。
私はあまり知らないですが、ナウシカの漫画版の終わり方に近いものが、挙がった話に共通しているらしく、チェックしようと思いました。
6/11(火)
場所が変化することへの恐れについての話がありました。具体例としては、久しぶりに訪れた場所が変わっていて、気づいたらもう二度と会えなくなるみたいなことです。実家に帰省するときに体感することが多い話だそうです。
これは詩的でもなんでもなく事実として思うことですが、「大切なものは失ってから大切だと気付く」というのは、あながち間違っていなかったんだなあと感じました。
6/13(木)
コミュニティについての話をメモしていました。
今回の私のキーワードが「ゆるやかにつながる」ということから、色々挙がっていきました。
特に覚えているのは、銭湯という場所は、来ても来なくても誰にも責められなく、来たら来たで誰かと話したりもする。もちろん話さなくても良い。という環境が、サイレントコミュニケーションという状態を生むそうです。誰にも強制をさせられないというのはコミュニティとしてとても豊かですね。
コミュニティの話で、もう一つ挙がったのは、現実世界のコミュニティとは別に、SNSやインターネット上でのコミュニティの関係性についてです。サーバー上で別の自分を演じる人もいれば、自分本人として振る舞うアカウントがあったりする人もいます。そのアカウントで発言したり行ったことが現実に波及したり、現実がネットに影響をもたらしたりと、現実と仮想上の自分は等価だということが容易に起きています。
これを少し考えてみると、「よく、信頼してるよなあ」と思います。それぞれのネットリテラシーのようなもので、本物か偽物かを選別してる訳だとは思いますが、その能力が無いと見分けられないのは非常に厄介だとも言えます。この「仮想を信頼する」という意味では、見えない範囲を信頼する地図だったり、紙なのに価値を信頼する貨幣だったりも「よく、信頼してるなあ」にあたると思います。
6/15(土)
最終日、強く残っている話題があります。
「帰る場所」についてです。
「つちにかえれ!」とか言う悪口みたいなのがありますが、そういうこととは少し違くて、ふるさとに近い概念についてを話しました。それこそ、初日から続いている原風景そのものだったり、実家だったりもします。
一人暮らしの家は「帰る場所」では無いのかという話がありました。
事実としてそこには帰るけれども、実家とは少し意味が変わり、一人暮らしの家というのは”宿”に近いものだという意見がありました。
そして、ここから話は膨らみ、一人暮らしの家が”宿”に近いことは分かったが、いずれもし家族が出来、子どもや共に住む人たちができた場合、みんなで住むその家は、土地は、場所は、「帰る場所」になっているのだろうかというところまで話は広がりました。一生のうちで、実家というものは変化したり増えたりするのだろうかということも考えました。
以上が、稽古場開放についての自分のメモだったり、自分の意見・自分の感想のまとめでした。
のべ30人以上の方にお越しいただきました。
本当にありがとうございました。
色々なことをお話しさせていただいたことで、新たな視点やアイデアが作品の方向、自分の考えに加わり、確実に豊かになった気がします。
上演を楽しみにしていてください。
上演後にはテーブルトークもございます。
皆さんで自由にお話しできる場です。ぜひぜひよろしくお願いします。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
再度アナウンスです。
『プロムナーズ』のご予約はこちらからです!
https://fumen85.peatix.com/
さて次回は、今のところ未定ですが、
上演する際のテキストを掲載するかもしれません。
それでは、また、
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