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2018/11/14~15、の終電にて。

電車が小さい時から好きです。
走行音を聞いて、なにかを当てるとかそういうレベルではなくて、ふつうに好きな感じです。なんかずっとかっこいいなって思ってて、新幹線とかを見に行く時とかは、親のデジカメを借りて写真をたくさん撮りました。
車掌さんになるのが夢で、それはいつの間にかお笑い芸人に変わっていましたが、最初の将来の夢は車掌さんだとしっかり覚えています。

いつか、シベリア鉄道ってやつに乗りたいなぁって、たまに見かける「世界の車窓から」で思ったりもしていて、家族で寝台列車に乗って、どこか分からないけど遠いところまで旅行もしたかった。カシオペアってやつに乗りたかったけど、今はもう無くなったらしい。
そんなことを考えてた頃の自分は、北は福島。南(?)は大阪までしか行ったことなくて、今は、北は岩手まで更新されたけど、南は大阪のまんまで。もちろん国外旅行なんかしたことない。おかげでっていうか、今はそんなに海外への憧れが無い。タイ料理とかインドカレーは好きなんだけど。

子どもだったから、寝台列車に乗って桜前線と一緒に北上していったら、桜はずっと散らないんじゃないかって考えたりもした。でも限界はあるのは知っていて、終わりは必ず来ることくらいも知っていた。だからそのまま北極まで行ったら、最後のひとひらまで桜が散るのを見届けようかなとかも。そんなこと、今なんかもう、考えている時に少し恥ずかしくなっちゃってあんまり考えないけど、それはもう二十歳だからで、あと一年で大学も卒業するし、その予定だし。でもだから昔のことを考えたりするのは普通なのかと思ったりもしてしまう。

将来は長いと思っていても、終わりは思ったより身近で踊っているかもしれなくて、今日受けた授業で、「見えないものは居ないのと一緒」って話が出た。それは、カタツムリからしたら人間の動きは早すぎて、彼女たちには認識できないらしいっていう内容の話で、それで「見えないものは居ないのと一緒」だと。捕まえられて食べられるのに、人間がきた!逃げなきゃ!ってくだりが無くて採集されちゃうカタツムリ。うまく認識していないのやばいなって思う。サイゼリヤでしか食べたことないけど。
この「見えなかったら居ないのと一緒」の話の時に、「虫を捕まえたりする時とかって、自分が神みたいに上から眺めたりするし、自由に自在に勝手に彼らに干渉をする」って話も出た。つまり人間な自分たちはカタツムリとかにおける神っぽい。でもじゃあそうすると、この世界に実際本当に人間に対しての神様は居るかもしれなくて、人間もカタツムリみたいに神様にあたる存在自体を認識できないのなら、見えない何かに気付かないうちに生き死にとかを決められていることがあるのかって考えると、どこかなんか腑に落ちる感覚があった。

こんなことを書いてても、駅に着くとドアが開くたびに寒くて、冬が来たと感じる。
秋が終わった感じも、そういえば夏が終わった実感も無い。
ハロウィーンが終わって、クリスマスが来て、年が明けて、節分とかは適当に豆まいて、春が来たら桜が咲く。冬はしんどくて苦手。寒いのがしんどい。
気にしたことないけど、今年も普通に越冬出来るのかなとかも考えた。桜を見る前に見えない神様にポンっと殺されるかもしれない。絶対に生きるんだろうけど。

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三橋亮太|Mitsuhashi Ryota
お読みいただきありがとうございました。