書評:『最後の努力──ローマ人の物語[電子版]XIII』(塩野 七生)

紀元300年頃のローマ帝国。蛮族にやられまくるのは、皇帝ディオクレティアヌスによってひと段落つく。

東と西に二人の皇帝を持たせて、それぞれが騎兵を持ち、蛮族が出れば、それを騎兵で討ち果たすことでローマ帝国は蛮族の略奪からひとまず落ち着くことができた。

ローマ帝国は東西に分かれたのではなく、一人の軍指揮官ではやっていけないので、皇帝を二人作って、東と西で分業した。これが、「二頭制」。二人の皇帝には正副があり、一番偉い人はディオクレティアヌスと決まっているので、皇帝が二人に割れたわけじゃない。分業である。

これをさらに進めたのが、二人の皇帝の下に副帝をつけた「四頭制」。これで一度は収まる。

皇帝ディオクレティアヌスは国を変えた。国民のために国家があったのがそれまでのローマ帝国であったが、国家主義と言うべき、国家のために国民がある形に変えてしまった。専制君主である。

具体的には、今までは「決めた税金の範囲で出費をしていた」ものを、「蛮族から守る費用を算出し、それに必要な額の税金を決める」に変更した。もはや、国家のための国民で、国民のための国家ではない。身分制度は固定化され、議員の子供は議員。軍人の子供は軍人と社会階級も固定化される。なんだか、どんより社会である。

四頭制も、代が変わると、どの皇帝が一番偉いのかわからなくなって、内戦が始まる。それを制したのが、皇帝コンスタンティヌス。そうして、皇帝コンスタンティヌスは、唯一の皇帝となり、民主主義を廃し、専制君主となり、中世が始まる。

キリスト教は一神教で、ローマ帝国は多神教。キリストの神は、真実の神です、絶対に正しい。この「絶対神が皇帝を指名する」ので、うだうだ選挙だなんだをさせないのが、専制国家であり、皇帝の権威づけに絶対神が必要だったので、キリスト教を担いだのがコンスタンティヌス。

ローマ帝国の皇帝が持つ私有地(本当はローマ帝国のもので、個人のものではない)を教会に寄進して、教会に経済力をつけさせ、教会に困った人を救済させ、神を権威づける。その神に自分を権威づけさせる順番で、専制の構造を作り上げたのが、コンスタンティヌス。もはや、住民のために働くと言う、ギリシアから始まった民主制は死んでしまったわけだ。

イスタンブールにキリスト教の設備を色々建てて、ローマ帝国的なものをうまく焼き直して、中身はキリスト教にすることで、首都ローマを廃れさせることに成功する。キリスト教のヒーローである皇帝コンスタンティヌスだけれども、もはや彼は自分の権威の維持のために国家のシステムを作ったとしか思えない。大悪人に思える。ローマ帝国の皇帝が、オリーブの冠で済んだところを、コンスタンティヌス以降は、権威づけのため宝石で飾った王冠が必要になってくる。実にくだらない。

塩野さんのこの本を読むと、今のキリスト教も元をたどれば、インチキであることがよくわかる。金にまみれた教祖競争が、コンスタンティヌスに利用されて、権力と宗教が共謀して、欧州・小アジアの国民を貶めたように描かれている。また、ギリシア全盛期から歴史を見ると、キリスト教が人間の文明・文化の進展をいかに阻害したのかもよくわかる。これから、ルネサンスまで十世紀、1000年もの間、キリスト教という邪教によって、人類文明の発展は阻害されるのである。ギリシアやローマ帝国の方が、中世よりよっぽど、今の社会に近い文明社会であったわけだ。

人類社会というのは、進化だけしかしないと思って生きてきたけど、これほどの停滞と後退が、キリスト教の普及により、起きたわけだ。

私は、昔、ルーブル美術館を見た。昔の宗教画を見たときのつまらなさ、感動の無さと比べ、オルセー美術館に行ったときの感動と心の躍動は忘れられない。ポンピドゥセンターに行っても人類の発展を感じた。ピカソ美術館に行けば、ピカソの進化にただ感動する。人は、進化したのだと。ただ、南に旅行していくと、古いイタリアの街並みや彫刻には元気があり、好きだった。宗教画の時代より古いローマ帝国時代のコインも綺麗だと思う。ローマ帝国からキリスト教のはびこる中世宗教画への品質の劣化。あれは、文化の後退だったのだ。そして、その文化の後退を産んだのは、キリスト教の支配する非合理的な社会であったことが、この巻を読んでよくわかった。

文化と文明の劣化、社会の混乱による、芸術レベルの低下というのは、今後も起こりうる。そうしないように、我々も工夫して努力して行こうと、心に強く誓う読後の感想であった。

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