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タコからAIの意識を考えるシリーズ3本の書評:『タコの心身問題』『メタゾアの心身問題』『植物は<知性>をもっている』
私、AIと接する中で、「意識」というものに興味があります。そもそも、コンピューターサイエンスというのは計算をすることもありつつ、コンピューターというのを科学することを通じて人間を知るという分野もあります。最近の生成AIなどで使われている深層学習(Deep Learning)は、脳みその視覚野を模倣して作ったものですから、その権化たるAIに「意識」が宿ってもおかしくありません。
じゃあ、私に意識があるとして、人間に意識があるとして、動物にはあるのというと、犬にも猫にも意識はありそうです。PCにはないように見えます。じゃあ、カブトムシにも意識はあるんでしょうか?アリにはあるんでしょうか?アメーバには?大腸菌には?コロナウイルスには?とやっていくとキリがないわけで、じゃあ、いろんな動物の意識はどこからあるんでしょうというのが、私が知りたいことであるわけです。
そもそも「意識」なんてものは曖昧ですから、その定義によります。本によっては、「意識」であったり、「自我」であったり、「知性」であったりとするわけですが、起点になったのは、この本でした。
『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』
(ピーター・ゴドフリー=スミス, 夏目大)
私ダイビングをしていた時があります。この本の著者の人はダイビングが好きで、で、タコに出会ったら、結構知的な動物であることがわかり、タコの意識について色々書いてある本です。タコって賢いんですよね。でも、全然人間とは違う仕組みで動いているというのが進化論の観点からちゃんと書いてあるので、面白い。詳しいことは後で書きますが。
で、次に、同じ著者の書いたこの本にいくわけです。
『メタゾアの心身問題――動物の生活と心の誕生』
(ピーター・ゴドフリー=スミス, 塩﨑香織)
挿絵が一緒じゃん、と思うのですが、その続編です。結論、タコには意識も知性も心もありそうだというのが先ほどの本の結論なんですが、じゃあ、どれくらい人間に近い動物から心がありそうなのか、というのをこの本は辿っていくんですね。
そんなこんなやっていると、「じゃあ、植物でも意識はあるんじゃね?」という気持ちになってきまして、本を探していると、こんな本に辿り着いたわけです。
『植物は<知性>をもっている 20の感覚で思考する生命システム』
(ステファノ・マンクーゾ, アレッサンドラ・ヴィオラ, 久保 耕司)
もうね、本のタイトルから、植物は知性を持っている、と言い切ってしまっているわけですよ。これから読むと、ショッキングすぎて、「あなた頭に妖精がいるよ」となってしまうかもしれませんが、こちらは、先ほどのピーターの著書で、タコから細菌からをみてから植物にきてますから、さほど驚くことはありません。タコが人間の脳みそとは全く違うシステムで知性を獲得しているのと同様に、植物には脳みそはありませんが、違うシステムの知性があるとしても、驚かなく私はなっているんですよね。
まあ、時間かかりますが、それぞれをこの順番で読んでいただければ、私が何を言っているのかはわかるんじゃないかと思います。
後で、それぞれの著書についての書評は回すとして、3冊読んで私が考えたことを先に仮説だけど、書いてしまおうと思います。
で、AIには意識はあるの?
そんなことはこの3冊には書いてありませんが、私の考察です。
タコの件から分かることは、意識を作るためには体が必要だということです。だから、私は生成AI(Generative Artifical Intelligence )には意識はないと思います。彼らは、文字や画像といった情報しかインプットを持たないので、人間や動物のような意識は持たないでしょう。しかし、現状のAIと言われる擬似知能がさまざまなセンサーや動かす手足を持った時に、私は、AIは意識を持つと思います。
じゃ、意識って何?って話になると思うのですが、私の仮説は、「意識というのはデスクトップである」ということです。
デスクトップというのは何かというと、PCのデスクトップ画面です。PCというのはいろいろなプロセスが回っていますが、プロセスがプロセスを感知することはないと思います。しかし、動いているプロセスが画面に出た時に、プロセスが明示的に画面に表示されます。この画面をコンピューター自身が感知できるものが、私は「意識」のようなものではないかと思うのです。
例えば、人間が、無意識に息をしている、というのは、バックグラウンドでコンピューターでプロセスが回っている状態です。意識している時は、デスクトップの画面に表示されている。これが意識じゃないかと思っております。
タコは意図を持って足を動かして狩りをすることもできるし、意図を持たずに足が勝手に動いてエサを探ることができるといいます。前者が意識で、後者が無意識だと思います。それは、デスクトップに足の動きが写っている時と、バックグラウンドで動いているときのようなものだと思うのです。
という私の仮説はこれくらいにして、それぞれの本の中身に参りましょう。
『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』
(ピーター・ゴドフリー=スミス, 夏目大)
「水族館で、人間が見ていない間にタコ逃げ出した」なんて話を聞いたことがありませんか?確か、ピクサーの映画の『ファインディング・ドリー』でも、タコが活躍していたような気がしますが、あんなのはアニメの中だけの空想と思っていないでしょうか?
違うんです。本当に、タコはそういうことをやってくれるそうです。
著者はダイビングを通じてタコをよく観察するようになります。タコは、人間を見分けることができて、タコの個体による性格もあって、近くに見にくるようなタコもいれば、隠れているタコもいるそうです。迷路を解いて餌を得るような複雑な問題を解くこともできるということが事例をもって語られていきます。
じゃあ、タコってなんなの?という話になるわけですが、頭足類という分類になるらしく、人間とはかなり遠い分類です。脳みその仕組みも大きく人間とは違うわけです。というわけで、大腸菌から人間やタコに至るまでの進化のツリーをこの本では解説します。
タコの神経系の数は、人間のニューロンの数より多いらしいのですが、その多くは、足についている。人間などの脊椎動物は多くの判断を脳みそでしていると言われていますが(これも実は怪しい)、タコは足で考えることができて、それにプラス脳みそがある。つまり、情報処理系が脳みそだけでなく、足にもあるんですって。
だから、脳みそをぶった斬っても足だけ動くし、それはそれで足だけでもいろいろなものを感じることができる。例えば、地形を探るのに足が勝手にゆらゆら動いて地形を探るというセンシングを脳みその指令と関係なくすることができつつ、脳みそが「危ない」という指令を出せば、ジェット噴射を通じて現場から急速離脱することもできる。CPUが二箇所にあるんだそうです。
そもそも、タコは脊椎動物じゃないですから、脳みその仕組みが魚や犬や人間とは違うのですが、同じように問題を解決する知性がある。目も良くて、人を判別できるんだそうです。
で、知性とは、意識とはという話になっていくんですが、神経系の情報処理という意味では二つの方向性があるらしい。
一つはセンサーからの情報を判断して、何かを動かすという「感覚→運動観」。やかんを指で触ったら熱いので、腕を動かして指と夜間の距離をとるってやつですね。「アチっ」てやつです。こっちは直感的に分かるかと。
もう一つは、運動の統合を担う「感覚-運動観」。例えば、ボールをストライクゾーンに投げるということをするときに、キャッチャーを見て、足を動かして、手を動かして、指を動かして、ボールを離し、という複雑な動きが統合されて初めてボールが投げられるわけでありますが、その各機関を誰かが調整しているのであり、それが神経系の情報処理のあり方だというやつです。しかも、投げたボールの位置を目で確かめて、また動きを調整するというのがまさにその「感覚-運動観」なんじゃないかと思います。
実は、この二つ目のボール投げるほうが意外に知られていないと著者はいうわけです。
私、これを読んでいて、ホリエモンさんのこの動画が気になったわけですね。
中国から犬のアホなロボを買ってきて、その脳みそを入れ替える教授さんの話なんですが、バーチャル空間でこの犬のロボットを256体ぐらい作って、シミュレーションさせて、その脳みそをロボットに戻してやると、気持ち悪いぐらい生物的な動きをするという実演です。しかも、このロボット、目のセンサーがないんだけど、階段とか登れるんですよね。足の感覚だけで。
まさに、AIが手足の情報のオーケストラレーションを行なって、運動をできるようにしているわけです。AIが。これって生物っぽいよねという話を思い出しながら、この本を見ておったわけです。
そうなると、当然、AIに知性を宿らせるなら、体が必要だなと思うわけです。
と、話が本から飛びましたので、戻します。
カイメンぐらいまで進化を戻った上で、タコの進化に戻ります。タコは貝殻を捨てて、形がなくなり、ふにゃふにゃになる。ジェット噴射で動きながら、地底の貝などを食べる動物として進化したという話。タコは水族館で水を吹いて電源をショートさせると言った知恵が働くものが多い。脳みそは酸素と糖分を大きく食うので、燃費が悪い。また、瓶を与えると遊び出すタコがいるらしい。遊ぶという行為もこれまた燃費が悪い。そういった燃費の悪さを持ってしても欲しい機能がないと、生き残れないのが生物界。
さらに不思議なことに、タコの社会というのが一部では見られるそうで、そのタコ同士の複雑なコミュニケーションとやり取りがあるそうだ。
タコがこういった知性を獲得しているのは確実なわけだが、進化のツリーを辿っていくと、我々とタコのルートは遠い。人間とタコの距離は遠く、人間と鳥、人間と魚の方が近いのだ。
ただし、タコの目と人間の目は近い。
タコは足が多くて複雑に動く。故にニューロンが多い。故に情報処理系も発達した。また、目も良いので、情報処理系を通じて情報処理能力が高くなった可能性が高いということ。
色の感知も面白い。タコには色がなく、ディスプレイのように色を作れるらしい。色の感じ方も人間とは違う。人間は、確か3つの色を感じる神経があって、これのバランスで色を把握している人が多い。
イカの仕組みは面白くて、モノクロなのだが、フィルターをたくさん持っている。赤のフィルターをかけてセンサーの値を取り、青のフィルターをかけて値を取り、と色を変えていくことで、色を判別できるそうだ。
要するに身体中が攻殻機動隊の「光学迷彩」できちゃう存在であるわけで、この身体中のディスプレイを通じて意思疎通もできるという話。ただしパニクルと、これもバグって、表現が揺れるとのこと。
で、結構賢いタコとイカなのだが、寿命はたいして長くないらしい。人間より短い。
と、タコとイカの話が、ダイビングの話を中心に巡らされつつ、遺伝学の進化のツリーを追いながら、脳みそや意識や知性がなんなのかを探求しつつ、迷子になるのがこの本なのだが、まあ、面白い。
『メタゾアの心身問題――動物の生活と心の誕生』
(ピーター・ゴドフリー=スミス, 塩﨑香織)
で、その続編がこっちの本。すでに疲れたので簡単に。
前回の本はタコとイカといった頭足類が中心に語られていたが、こっちは、さらに幅広く丁寧に取り扱っている。人間やタコから遠い順から、原生動物、カイメン、サンゴ、えび、ヤドカリ、主観の起源、タコたち、キングフィッシュ、陸上の生活、ヒレ・脚・翼となって、心の話に入る。
より丁寧に幅広く扱ってくれるのだが、まあ、論旨は同じ気がする。生物の歴史を学ぶには良い感じだが、結構長いし疲れる。
色々見てくると、じゃあ、植物でも意識も知性もあるんじゃないかという話を見て、本を探すとあるわけですね。
『植物は<知性>をもっている 20の感覚で思考する生命システム』
(ステファノ・マンクーゾ, アレッサンドラ・ヴィオラ, 久保 耕司)
こっちの本は、先ほどのピーターさんに比べると雑なつくりである印象です。学術的な探究というよりは、植物愛を感じる部類の話が多い。テーマが意識ではなく、知性であるというのも違う。
植物は生きているのか、死んでいるのか、という議論がある。西洋人の常なのだが、この辺りはキリスト教とは不便で、日本人に比べて人間は特別な生物でなければいけないような思い込みが激しい。『トトロ』で育った我々日本人にしてみると、そういった思い込みは少ないので、まあいいやという話。
で、「植物は動かないから死んでいて生きていない」ということになるらしいのだが、これは勘違いで、時間のレンジが遅いだけで、植物は大きくなるし、方向も変えるので、人間が知覚できないだけで、植物は動いている。根っこについても養分や水分があるところに向けて伸びているので、ちゃんと判断ができているから知性があるよ、という話をしている。
センサーとしても、5感どころか、植物には20個のセンサーがあるよと言っている。光を感じてそっちに伸びていくし、トマトは匂いを感じて細胞間で伝達するし、ハエトリ草は動物食べて味覚もあるし、オジギソウは、2回目の刺激にしか反応しない。
植物同士のコミュニケーションもできていて、有名なキリンが葉っぱを食べるとガスを出して、まずい成分を出す、などもある。また、植物同士のコミュニケーションができていて、親族とそれ以外を見分けているそうだ。というのは、遺伝子が違い植物同士の場合は争わないのだが、違う植物同士は争って、資源の奪い合いをするそうで、遺伝子の近さを知覚しているという話。
根っこでは、植物が菌を利用していて、菌が窒素を生み出して、植物は糖類をあげるという関係がある。昆虫も利用していて、ありを利用しているものもいるし、小麦などはまさに人間を利用して自らを増やさせているという話で、外部の活用も多い。
最後には、植物の特性について書かれている。まず、地球上のバイオマスの質量が大きいのは植物であって、動物でも人間でもないので、地球は植物に支配されているという主張。そして、植物には脳がないが知性はあるということ。植物は、モジュール構造で、一部がなくなっても全体が死なないようになっている。人間や動物は心臓が無くなれば生きていけないが、植物はそういう構造になっていない。脳がないから知性がないという考えではなくて、モジュール型の知性もあるよね、というのがこの本の主張である。
進化論のチャールズ・ダーウィンは、植物が知性を持っていることに気づいていたようで、徐々に慎重にその論を開示している。
というような話が書かれていて、ちょっと植物に意識があるかはわからないが、ひょっとすると、すごくクロック周波数の遅い巨大な生物が植物なのかもしれない。でも、あまりにも時間のレンジが違いすぎて、人間には生きていることが知覚できないという論は、私は納得できた。
で、意識とは何か?
結論、ここに戻ってしまう。
私は哲学は嫌いなので、哲学的に意識を語るつもりはない。そういう文官的な問答は嫌いであるし、興味がない。科学と統計の人なのである。
その一方、客観の時代から主観の時代にあるとも言える。そもそも、原子分子ひょっとしたら量子の状態がどうなのかという話ではなく、人間がどう認知するのか、が意識の問題で、AIの研究が進むにつれて、コンピューターの研究が進むにつれて、認知の問題が重視されてきたとも言える。
認知の問題は、人間がどう認識するか、動物がどう認識するかの問題なので、主観である。主観そのものと言えるから、哲学的な議論に陥るのも仕方がない気がする。
それでもなお、理系の頭を持った人間としては、さっぱりとした意識の定義をしたくなるのがサガである。
ここは、人間の脳みその仕組みを模倣した仕組みであるDeep Learningの基本を基礎として、自ら映し出した映像を自分が再認識するというフィードバックループの存在こそ、意識であると考えてみたらどうかとおもう。
それが、「意識とはデスクトップである」と私が考えている理由である。
が、あまり3冊の本とは関係があるような、関係がないような話である。
3冊の本からわかるのは、「意識」っぽいものは、人間にも、タコにも、犬にも、昆虫にもありそうだということである。
意識の定義を仮説でも良いので厳密にした上で、それを検証することでしか、意識が何かについては解明は出来まい。