『哲学の謎』 (野矢 茂樹)
ある勉強会に出席したところ、講師のオススメだったので、読んで見たのがこの本。二人の問答形式で、主要哲学の諸論点が網羅されていそうな感じで、哲学というものがよくわかる本なのではないかと思う。
難しいことを非常にわかりやすく、問答形式で表現できている素晴らしい本であると思うのだが、それでも私がこの本を読んでつまらないと思うのは、私には哲学が向いていないということだと思うわけだ。なぜ、そう思うのかを突き詰めて見ると、「哲学は人間の言葉遊びにすぎず、定義に定義を重ねた論理の堂々巡りで、本質に迫っていない」としか思えないからだと判明した。
出版した年数もあるが、今の現代科学から振り返るとき、哲学のいくつかの論点は他の科学で解明されており意味がないと思った。その辺りを、依然としてギリシアが全盛の西暦0年より前よりアップデートされていない哲学で語られても、どうも後から余計な知識の入った私のような人間には、しっくりこない、というのが感覚である。
例えば、「生物は絶滅しても夕焼けは赤いか?」からこの本は始まる。そもそも、昆虫や動物の視野の一部は人間とは異なり、色がない。光は電磁波でそこには絶対的な周波数がある。それを感じ取るのが人間の目というセンサーで、センサーの性能によってそりゃ色は違うだろと私は思う。赤外線カメラでとれば、透明に色がつくし、デジタルに配色など後付けできる。色の本質は、脳みそによる後付けなんだから、赤という人間の認識を絶対値のように語るこの論点に意義が感じられない。絶対値は、電磁波の周波数である。
と、万事がこのようになってしまう。
「五分前過去創造説」も面白い。5分前に世界はできてあなたが過去と思っていることは、5分前に作られた記憶にすぎない、という話。この辺りもプログラミングをしているとわかるかもしれない。データが外部化されていて、インスタンスなり、コンテナをさっき起動させたとする。動いているコンテナという世界は確かに5分前にできたが、3年前のデータ(記憶)も、そのコンテナには反映された過去と連続されたサービスが提供される。記憶というのも、人間の認識にすぎない。先ほどの色と電磁波の周波数のようなもので、私には今があれば、あとはどうでも良い。世界が何分前に作られようが、私には、私の可愛い子供の赤ちゃんの頃からの記憶と、赤ちゃんの頃からの写真という記録と、目の前に可愛い子供がいれば良い。あとは、気にしないからなあ、で話が終わってしまう。
次の時が流れているか?という論点が実に哲学的だ。昨日、「1時間ほど時の流れが止まっていたって知っている?」という問題設定が面白い。これに対する私の認識は、「流れる」という人間が作った動詞自体に引っ張られすぎているんじゃないかということ。この議論は、アインシュタインみたいに数式でやった方が良くて、人間が作った虚構たる「言葉」の定義の堂々巡りになっている気がする。具体的には、「流れる」の定義が不明確の中、時が流れるかの定義をしているから変な話になっていて、ここの章は、「流れる」とはどういう概念なのか?を論じているにすぎない気がして、時について語っているようで、語っていない気がする。まあ、流れの概念を説明するのに、時刻と時間の概念が必要なんだけど。
私的体験も色の話。ウェブのデザインを数秒でもやったことがある人なら、CMYKとかRGBを知っていると思う。ディスプレイの出力特性はあれど、基本的にPCの画面からでる色は、#00000から#FFFFFFまでで色は表現できる。同じ出力特性のディスプレイで色を出すとき、それを何色に見えているのかというのは、目というセンサーの性能の問題である。センサーでも個品で差があるんだから、そりゃ、差分があるだろ。しかし、ディスプレイを固定した時、#FF0000で表現される色の電磁波の周波数は一定の範囲で固定されているだろうから、これを赤と表現すれば、絶対的な赤はある。人の認識を定義にしなければ、色は周波数帯で固定できるので、決めの問題。センサー性能が全ての人が同じである前提であるから、哲学の話は成り立つのであるが、そもそも、動物とか昆虫まで視野を入れて話せば、こういう話にはならないと思うんだけどな。これも、「赤」の定義の問題。哲学って、どこまでいっても、人間中心的というか、人間しかいない世界の極めてわがままな自己中心的な世界に思えてならないんだよなあ。
経験と知。経験の一般化を知識とする話なんだけど、人間の視覚野を模倣したDeep Learningを少し学ぶとわかりやすい。人間は母数が少なくても学習できるが、その精度は高くない。人間だろうが、Deep Learningだろうが、入れたデータが偏れば、それによって判別されるものも間違える。知識というのは、Deep Learningにもできるが、その言語化はまた別である。私としては以上なのだが、「言語化されないものは知識ではない」という言語原理主義の人たちがいるとすれば、話が合わないんだろうな。教育して、キュウリの大きさを判別するDeep Learningの塊ができたとして、この塊の「キュウリの大きさ判別能力」を知識と呼ぶのか、呼ばないのか、という話だろうと思う。私は、この塊にもキュウリの大きさ判別に関する知識はあると思う。しかし、このきゅうりの塊判別装置のロジックは、言語化できない。そのあたりの定義の問題かと。
規範の生成。社会のルールなんて大した理由はないし、歴史的に見て変わっているんだから、規範など意味はないし、大人が子供に言う「規範を守れ」って言うのは大した根拠がないよね、と言う話。データで検証しちゃう時代ですからね、論点の設定自体が、今の時代には合わない。
意味のありか。何が「コップ」なのかを教えるのをDeep LearningをはじめとしたAI界隈でよくある話。アノテーションで教えるしかないわけで、人の概念など、それくらい根拠がない。「みんながコップと読んでいるからコップ」ぐらいの意味しかない。終わり。
行為と意思。猫が顔を洗うのは意思なのかという話。この辺りは、脳科学である程度研究が進んでいて、脳みそは意思決定をしてから、理由づけをしている。つまり行為が決まってから、意思を後付けすることがわかっている。何を意思と呼ぶかのこちらも言葉の定義の問題になっているんだけど。
自由の話が次に進んでいるけど、こちらもまさに脳科学だよなあと。右手を上げることを意思決定してから、理由をつけているんだから、何を自由と呼ぶかによる。人間の脳みその処理体系に、昔からある反射神経的な動きはほぼ自動化されているのに近い挙動をする。そうでない部分、大脳で長い時間考えて、行動をする場合が、決定論なのか、どうかと言う話だと思う。
うーん、どうでもいいんだよな、私にとっては。
私が楽しく生きてればさ。
と言う意味で、私は、哲学として勉強されている哲学に全く興味が持てない体質であるようです。それが、この本を読んだ学びでした。
でも、色々考えさせられたし、難しいことがわかりやすくまとめてある良い本だと思いました。野矢先生、ありがとうございます!