書評:『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之)その10

第17章から19章まで。ちょっと中だるみ。

第17章は産業革命の話。

産業革命とは、エネルギーの革命。まずは石炭を燃やして蒸気を使い、動力を得たと言う話。今では、それが原子力(核分裂の方)まで使えるなど、人類は使えるエネルギーを拡大してきたので、エネルギー切れというのは起こさないわけだ。無限に拡大する推進力を手に入れたのに等しい。

農畜産業の生産性も上がった。著者は、養鶏などを「ベルトコンベヤー上の命」と書く。ひよこを作り、太らせ、食べる。牛も同じ。豚は哺乳類にしては、知能が高いらしい。しかし、生まれて、太らされて、殺される。奴隷貿易が非人道的なら、こちらも非人道的な行為になる可能性は十分ある。これも、産業革命による生産性革命の成果だ。

猿の実験でわかったことには、猿の赤ちゃんが欲しがるのは、ミルクではなく、母親のぬくもりということだそうだ。この猿の心理学から考えると、畜産は、高い生産性のためにかなり酷いことをしていることが分かったと言う。高い生産性の元に、残酷な世界を作り出したのが、人類である。

産業社会は、消費社会を産み、必要のないものまで消費を拡大するのが正義である社会を生み出した。と言うのが、17章のお話。

18章は、国家と市場経済がもたらした世界平和という話。

人類がやっているのは、自然破壊ではなくて、自然変更だ。自然は破壊できない。白亜紀に隕石がぶつかっても哺乳類は繁栄して自然は続く。人類は自然を変更するだけの力を持っている。

産業革命は、標準時をもたらし、自然とは切り離された生活を始めた(自然に暮らすのであれば、太陽が真南にくるのが正午であるが、標準時はそれをずらす仕組みだ)。産業革命は、核家族化をもたらし、地域コミュニティを崩壊させた。家族によって支えられていた社会が、国家により支えられるようになった。地域社会(ムラ社会)は崩壊し、かといって、他に支えるものがあるわけではない。国家はそれに変わろうとしたが、できていない。ナショナリズムという名の虚構が、新たな団結力の源になろうとしている。だか、日本人というアイデンティティがあっても、日本人すべてのそれぞれを知ることはできないので、地域コミュニティとは違うもので、代替は出来ていないと著者は言う。

最後に、パクス・アトミカということで、原子爆弾による平和と続く。戦争すると世界が絶滅するのでコストが高い。平和が続いた方が安いので、平和が続いているという話。

さて、19章。文明は人類を幸福にしたのか。

結論、わからないらしい。

まず、幸福をはかる指標がない。家族やコミュニティが昔の幸せの源泉だったが、それは産業革命で核家族化して壊れた。変わるものは未だない。

次に、脳科学の話に入っていき、幸せは結局ドーパミンで、それは物質とは関係なくて、幸せと思えば幸せ的なものだから、文明は人を幸せにしないという話になっている。

最後は、幸せが何かを考え抜いた仏教の話になって終わる。


感想。

第17章は、「産業革命の本質は、人類が使えるエネルギーの限界がなくなった」というのが目から鱗だった。この力は偉大なので、使い方間違えると、惨劇が起きると。

「行き過ぎた畜産はいいのか、奴隷貿易と一緒じゃないか」と著者は問う。産ませて、太らせて、食べるのだから、罪は罪だろう。もう少し楽しい気持ちで太らせてから殺した方がいいのだろうか、悩ましい。食べると言うのは、対象が何であれ、突き詰めると、虐殺に過ぎないから。

第18章では、産業革命による家族の分離と地域コミュニティの崩壊を解く。確かに、地域コミュニティを超える社会基盤はまだない。未だ、児童虐待が続くのも、これだと思う。これが、21世紀のテーマだと思う。

第19章では、文明と幸せについて考える。結局、仏教に話が落ちるので、なんとなく仏教の考え方を知っている日本人からすると、レベルの低い話に聞こえる。もともと、我々日本人は、物質的な豊かさや貨幣の多寡を幸せとはあまり関係ないと知っている。なので、だよねーとしか思わない。文明は、人を幸せにしない、でいいんじゃないだろうか。ただ、文明が人を不幸にしているわけでもないので、私としては、「文明と幸せは相関がない」でいいのではないかと思う。

というわけで、楽しみな20章に入るわけだが、これは、また今度。


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