断片 #6
(1)
6月末、新卒で入社した会社を辞めた。
社会人3年目を迎え、働いている中で自分のアイデンティティや自分の生き方についてを内省する機会が昔に比べて増えた、ような気がする。
忘れないようにここに残しておく。
(2)
今年の春、前職の会社には内緒で、北陸へと一人で旅に出た。
私は鉄道が好きだ。北陸新幹線延伸前にどうしても金沢発サンダーバードに最後に乗りたかった、というのが大きな理由だった。
京都・大阪方面に向かう湖西線左側の車窓は幾度となく旅情をかき立てる風景を映し出す。
特に、夏場の湖面に映し出される紫色のマジックアワーは大変壮観である。
乗車した時の天気は生憎の曇り時々雨だったが、それでも最後に乗れるという思い出に勝るものはなかった。
京都で下車した後、大学時代の友人と出町柳にて合流し、喫茶店でタバコに火を付ける。
会話に華を咲かせつつお互い苦労しているなどと慰め合うだけの会。私にとっては、彼と話をしている時間がとても大切な時間だと思える。
彼とはその時アイデンティティの話をした記憶がある。「何かのコミュニティに所属している」というテーマから話が広がったものだった。
界隈や組織、サークルなどに所属していることを自分自身のアイデンティティと同義とすることに違和感を覚えるという話で、その話をした時から今日まで自分の頭の中を反芻している。
自分自身はコミュニティそのものを否定している訳ではない。むしろ属することが誰かにとっての生きる糧になったり、生涯の友に出会えたりするかもしれない。実際私もそのコミュニティの存在にどれほど救われてきたことか。
自分は一体何者なのか?自分はこの世界でどんな存在でありたいのか?自他の境界が区別出来なくなれば自分が何者であるのかすらも失ってしまうかもしれない。
どちらかといえば、これはコミュニティでの自身の在り方の話なのだろう。
ここで初めて自分がリバタリアニズム的な思想を最重視しているのだと言語化出来たと思う。
(3)
関係性の近い人達には話しているが、今年の4月から学校に通っている。
デザイン系専門学校の社会人コースに通いながら6月までは働いており、という状態である。
自分にはまだ考えたことを形にするまでの能力が足りないということを、ずっとコンプレックスとして持っていた。前職の業務中にこそこそソフトを触りつつ自分のやりたいように遊んでいたが、いかんせん社会で上手く活用していくだけの基礎が身に付いているという実感はなかった。
自分は「頭で考えたことを自ら形に出来る人間」になりたいのだと、3月の旅を通じて考えていたのだと思う。
自分は別に社会に上手く迎合して高い役職の人間になってやろうだとか、何かの権威になってやるだとか、そういった願望はかなり薄い。
あくまでも自分がやりたいことが出来るように、自分が自分でいられるように、自分が生きていくことを諦めないために、そういう選択を取ろうと考えたのではないかと気付く。
(4)
2020年の7月からバンド活動を行ったり会社員として生活したり、そこから4年が経過した。
その中で自分自身が今やりたいこと、興味のあること、向いていることが少しずつではあるが理解出来てきた。
コミュニティを醸成するということ、誰かと誰かを繋げるということ、それが自分は少しだけ他の人より長けているかもしれない。
しかし、界隈や組織、サークルなどに所属するということ=アイデンティティになってほしくないという想いは変わらない。
だからこそ、所属する中でその人が生きる意味や行動する意味を伝えたり気付かせてあげるような手助けをしたい、と考えるようになった。
私は、自分自身がどのような存在でありたいのかを悩みながらも見つけ、決意を持って生きている人を心の底から尊敬している。
他人を故意に傷付けるものでないのなら、それがどのような形であっても良い。
そんな人達を見て憧れる私も、その瞬間においては自他の境界が無くなってしまっているかもしれない。自覚した瞬間はひどく滑稽である。