やりすぎて何の意味もないのに、無駄や余白も一切ない空間
「やりすぎて何の意味もないのに、無駄や余白も一切ない空間」
そういうものをたまに見る。
昨日都内で開催されたトークイベントにて富野由悠季氏の過激な言動はキャラ作りという見解が共感されて嬉しかったのですが
富野由悠季がなぜ実在しない大御所映画監督風キャラ作りをしているのかというと
映画は
・偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い偉い
・立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派立派
・大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人
アニメは
・子供だまし
・コマーシャル
という感じの強固なコンプレックスが恐らくあって、自分の作品も映画のように視聴されれば作劇意図が全て余すところなく完璧に伝わるかも知れないというほぼ夢現の中で絶叫をあげながら誰よりも冷静に目を開けたまま狂っているどうにもならない透明な箱のような強迫観念があるからで
しかし現代人は映画とYouTubeを同じノリで観るのでそんな悲壮(cute)すぎる努力は誰にも気付かれず全くの無意味…どころかもうろくしたセクハラじじい扱いをされるという散々な目に遭い、いっそう内面の冷静な狂いを加速させていくのであった。
哀しすぎて伝わらない選手権を一人で開催し続ける現代のゼペットじいさんこと富野由悠季…。奇跡は起こらないし、インターネットでは穴を掘ったり埋めたりするのに忙しくって誰も誰の話を聞いてない。
透明な箱が哀しみで埋め尽くされればされるほど
見えない光の屈折で余計に何もかもが順当には伝わらない
「やりすぎて何の意味もないのに、無駄や余白も一切ない空間」
それは本来、他者性であったろうに
今や強すぎてなにもかもを頑なに拒んでいる。
全てのエネルギーが社会通念上の価値への指向性をはらんでいるせいで
意味が物事をへの本質的な理解を頑なに拒んでいる。
時々、私たちはそんな風に矮小化されていく重力の磁場の渦中でしか物事を解釈できない集団であることが、
精神的なエネルギーの流れを毀損し過ぎていることが、
どうしても耐えられなくなって
言語の構造を放棄して一度に表示されている言葉を全て同時並列的に認知回路に焼き付けてみる
そうすると精神が描くはずだった燃えつきた地図の残像がおぼろげに見えて
そこには未来から過去へと向かう時間軸が当然のように存在している。
私たちは未来から投影された精神性の残像の痕跡をかろうじて、群のルールの外側に役割以外のところに付与された言語の精神的な性質として感じ取ることでようやく、かろうじてエネルギーの変質を得た猿の集団に過ぎない。
私たちはその倒立した精神の流れを遡っては進歩的は存在になったつもりでいるが、
私達の精神構造が現状の社会構造の鋳型に流し込まれている限りは
それは常に遠い過去で、我々はほら穴に暮らす。
星の光が過去の遺産であるように、私たちは未来からの精神の遺産を投影されている「かつて」に過ぎない。
『刻が未来に進むと 誰が決めたんだ』
本当にそう思う。
本当に。
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