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想像力は無限大という錯覚(「ゆめかわいい」とはなんだったのか)

文末付録:Mizunopedia


・「ゆめかわいい」とは、なんだったのか

最近「ゆめかわいい」って一体なんだったんだろうなということを考えていました。これは2010年代の流行語でドリーミーな意匠を持つファッションやイラスト、インテリアなど幅広く使われた表現です。

ゆめかわいい:「夢みたいにかわいい」の略語とされる。2010年代に流行したドリーミーなかわいらしさをもつ意匠を全般的に表す表現。

なぜ気になったのかというと、先週の記事で「夢見」をしている人々について考えたからです。

この中で「夢見心地の中で行われる犯罪」について書いているのですが、夢がシームレスに犯罪へと接続する後ろ暗い質感が「ゆめかわいい」という語感に抱いたそれと付合するように感じたのです。

つまり、「夢の出汁の伝言ゲーム」をやっているうちに「夢の出汁」が薄れて「スカスカお湯事件」が発生し、結果として「カツアゲユニコーン」が原宿を席巻するのではないか。
(※詳しくは文末の[ Mizunopedia ]を参照してください)

簡単に言うと、幻想的な印象のものはパッと見ただけでわかったような気分になってしまい、内実に込められたこだわりや繊細な表現を「ゆめ」の一言で雑に済ませてしまうからだ、という話です。ここまで考えている中で「なぜ幻想的な意匠のものはパッと見で理解した気分になってしまうことが多いのか」という点が気になりました。

・「想像力」が過大評価されている

どうしてこのような現象(=スカスカお湯事件)が起きるのでしょうか。

筆者は「想像力」に過剰な期待を抱きすぎている人が多いからではないかと考えています。人間の有している能力はどれもこれも限定的であって万能ではありません。しかし、なぜか唯一人間の能力の中で「万能・無限大」ということに社会通念上なっているものがあります。それが「想像力」です。イマジネーションと呼ばれるケースもあります。わざわざ説明するまでもありませんが、気のせいです。

筆者は大学で映像作品を作る学部に通っていたのですが、学生が作る映像の内容は(当たり前ですが)本人の知識や経験と密接に関係していました。寝ている間に見る夢の内容なんかもそうだと思うのですが、無知な人のイメージには露骨に無知が反映されます。夢なら自分が見るだけで誰にもバレないからいいのですが、100人ほどの学生が課題で制作した10分程度の映像を次々に上映していくとなると、個々人のイマジネーション格差が如実にスクリーン上に反映されることになります。しかも、映像の内容を見ていると、その人が普段どんなものを見ているのかも大体理解できます。この時点で想像力が無限大でないことは明らかです。

また、知識が豊富であってもそれによって想像力が豊かになるかは人それぞれだとも感じました。例えば、現代思想にものすごく詳しくて知識豊富な人が展示した写真が「お花畑に佇んではにかんでいる女性」や「手のひらに止まったてんとう虫」など、昔のWindowsの壁紙素材みたいな内容だったりしたのです。写ルンですの販売コーナーにレイアウトされていそうな素朴な写真です。思想ばかりやっているせいで女性とかお花畑などのマテリアルが新鮮だったのかもしれませんが、これには驚きました。

なぜ単なる素朴な写真を公の場に発表してしまったのでしょうか。それは、「イマジネーションは無限大」という風のウワサを真に受けて、自力で創意工夫する工程をサボってしまったからだと思います。この場合は「誰でも素晴らしい個性がある」という説と「想像力は万能」という説をどちらも検証することなく間に受けてしまったんじゃないでしょうか。いい加減なことしか言わない大人の心ない発言に騙されてしまって本当に気の毒です。

例えば「魔法学校に入学する」というストーリーの映画に「魔法力」という言葉が出てきたら、「この世界の魔法とはなんでもできる万能の力ではなくて、本人の力量によって実現可能な範囲が変わってくる限定的な能力なんだな」と理解できる人が多いんじゃないかと思います。魔法っていう虚構の能力でも理解できるはずの話が「想像力」になった途端、急にわからなくなるのはなぜでしょうか。

・だいたいこいつのせい

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