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誠実の悪代官
社会のルールとして誰も具体的には触れないということになっておりますが、実はこの世には主にいい誠実さと悪い誠実さがあります。
度し難いことに、人間存在はそれ自体が矛盾の総体なので、常にいい誠実さだけがいいとは限らず、時と場合によってはいい誠実よりも悪い誠実のほうが重要である場面も存在します。
例えば、ドキュメンタリー映像の制作現場とか。
いい誠実さとは、目の前で起こっている現象をアウトプットされているそのままの形でより詳細に捉えようとするひたむきさのようなものです。一方、悪い誠実さとは目の前で起こっている現象の裏側に隠されている「人間の途方もない言葉にならない哀しみ」を悪気なく言い当ててしまうひたむきさのことです。
「あの人って誠実ですよね、悪い意味で」
というセリフを実際に聞いたことはありませんが、何やら人格がありありと想像できるではありませんか。実際に誠実さとは悪い形で現れる方が大半であって、どちらがより人間存在にフィットしているかといえばやはり悪い誠実さとしか言えません。かといって、悪い誠実さだけでは描ききれない側面もあります。人間は他者のために、あるいは職業的な著しいプロ意識のために目的意識を純化することができる存在でもまたあるからです。制服やスーツはむしろ人間の身体へのフィット感の少ない形状をしていることが大半であります。
日常では観測し難いそういった純化された誠実さの瞬間を描くこともまたドキュメンタリー映像にとって欠かすことができない視点だからです。
したがって、面白いなと感じるドキュメンタリー映像はいい誠実さと悪い誠実さが均衡して、決してどちらとも言い難い人間の奇妙さを描き出していることが多いのですが、この調整を一見均衡が取れているように見せかけて、実のところ「悪さ」に結構な割合で振り切ってしまっているドキュメンタリー番組があります。それは
プロフェッショル 仕事の流儀
です。みなさんも薄々お気づきだとは思いますが、左上にNHKと書いてあると、つい油断してしまう一般市民の隙をついて、プロフェッショナルはいかにも悪い誠実さで人間を克明に描き出しているのでした。
私がプロフェッショナルの悪い誠実さを明確に認識したのはスラムダンクの作者、井上雄彦さんの回です。当時(今もですが…)「バガボンド」の執筆で極限まで精神を追い込まれていた井上雄彦さんは冒頭からはっきりと言葉を選ばずに言わせていただくならば「死の寸前」といった風情を醸し出しておりました。崖から飛び降りる自殺志願者はこのような目つきをしているのではないか、と思わせるどこにも焦点が合っていない墨汁を流し込んだような目つき。スラムダンクの作者ということも影響しているのかもしれませんが、どこかバスケットボールを思わせる顔色。何もかもが手遅れになってしまったのか、石膏で型取りしたような心と実態が徹底的に切り離された笑顔は、牢獄の檻の隙間からから手首の先だけをぶら下げて自由を願っていながらまた一生牢獄の中にいることを願っているようにも見えました。私がディレクターであったら、もうこの段階で心が折れてしまっていると思いますが、プロフェッショナルの制作スタッフは絶対に折れません。なぜなら、「プロフェッショナル」だからです。お互いに「プロフェッショナル」ということで…という暗黙の了承のもとに開陳される流儀はしばしば度を越した過激なものでありますが、だってプロフェッショナルだもの。どうやら「アマチュア」の定義は「人間」の定義に近く、プロフェッショナルとはそれに反するものなのだということが分かってきたのであります。
死の寸前の井上雄彦は、力なく笑いながらこう言いました
「もう、ハワイアンとか。そういう音楽しか聞けなくなってしまいました」
こんなに哀しいアロハオエを、私は初めてみました。こういうときエンヤだったらよかったのに。エンヤを教えてあげたい。というか、どう考えても当たり前に井上雄彦さんはエンヤを知っているだろうし、その上でアロハを選んでいるのだろう。
図らずもアロハが人間の哀しみを抉り出した瞬間でありました。井上雄彦さんは、他人にエンヤを知ってるかどうか推察されたことがあるなんて、夢にも思わないでしょうけれども。
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