「NANA」論〜あくまで徹底したリアリズムで描かれるアンチソーシャルの相互補完関係〜
NANA論
〜あくまで徹底したリアリズムで描かれるアンチソーシャルの相互補完関係〜
「NANA」という作品について考えるときに、まず作中で半ばひとつの概念、もしくは価値観のように描かれる「NANA」が具体的に何を示すのか明らかにしておく必要があるでしょう。
まずは作品そのものの象徴として扱われる「7」という数字について。
これは明らかにラッキーセブン、要するに「幸せ」を暗示しているものと考えられます。単純明快な解釈として、奈々、あるいはナナという片一方では完結することがない幸福というものの完成形として「NANA」という概念が提案されている。
それは女性の幸福が「恋愛」と「自己実現」の二者に引き裂かれているという現実を端的に示しています。
NANAを考察する上で比較として似たような構造を持つ作品が、アニメーション作品「少女革命ウテナ」です。
「少女革命ウテナ」においては、性質の違う二者の関係が「結婚という幸福なストーリーとして描かれる虚構」「(女性の)自立」の対比として描かれています。
ウテナにおいて「結婚」というものは、徹底して「虚構」。即ち、実態の伴わないまやかしとして扱われます。作中に「世界の果て」つまりは、シンデレラストーリーとして描かれる「めでたしめでたし」の向こうには何もない、王子様は虚像であり、ストーリの内実はがらんどうであるということです。これは様々な表現方法によって繰り返し描かれます。
シンデレラコンプレックスによって自立を阻害された女性が自己を確立する過程が全編を通して描かれており、構造としては非常にわかりやすくシンプルです。
一方「NANA」はどうか。
ウテナとの対比によって見えてくるのは、「NANA」の徹底したリアリズムを追求する姿勢と言えるでしょう。
「NANA」を二者間の相互補完的なストーリーとして捉えた際に、大きく二つのセクションに分けて考えることができます。
それは
・NANA(渦中)
・アフターNANA
と言えます。
物語前半、価値観の違う二者が出会い、相互補完関係を構築する段階が「NANA」であり、その後の同居関係を解消し「NANA」の外側、メタ的にNANAを描く構成になっている後半部分は「アフターNANA」もしくは「メタNANA」と考えられます。
なぜ、NANAはシンプルな引き裂かれる女性の相互補完関係(メタファーとしては、一人の女性が抱える二つの価値観の側面として機能する)としてのシンプルなストーリーを描かないのか。
それは、「NANA」が端的に答えの出ない徹底したリアリズムを追求しているからと言えます。
「ウテナ」のストーリーは、(表現方法としては)少女向けアニメとしては極めて画期的なものでした。商業作品として制作された少女向けアニメーションでシンデレラストーリーが完全否定されることに画期的な存在意義を発揮しているのが少女革命ウテナと言えるのですが、一方ウテナが抱える致命的な問題点としては
一方の幸福追求を完全否定することでしか、他方の幸福追求を描くことができない。
というものがあります。
これではやはり、裏返しになっているだけで、ある意味では「社会性に極めて従順な態度」とも考えられます。
そもそも、なぜ、引き裂かれる二つの欲求が「二律背反のものとして描かれなければならなかった」のか。
既得の権益構造に踏み込んだクリティカルな問いかけはここでは行われませんでした。
それは少女革命ウテナにもう一つの意味で「世界の果て」つまりは言及可能な対象の不在を表しています。
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