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なぜ、今オリンピックにしらけるのか
なぜ、今オリンピックにしらけるのか
現在、コロナウイルスの世界的流行によって我々は明らかにオリンピックどころではない危機的状況に追い込まれています。
しかし、実際のところ感染症がなかったらどうなっていたのでしょうか。
私は、オリンピックの開催地が東京に決定してからというもの、どうにも「自国でオリンピックが開催される」というイメージというか、何かこう未来に実現する出来事への予兆や熱量のようなものが全く感じられませんでした。
やらないのではないか。
ビジョンと言ったらかなり大げさな表現ですが、何にも見えてこないということは実際に開催されないのではないかと思っていました。
実際には予想と違う形でかなりうやむやになったのですが。
私ほど極端ではなくても、どうも今回のオリンピックについて乗り気になれない、正直しらけるという人は割と多くいらっしゃるのではないかと思います。
それは、労働者が現実として直面する困難さ、教育や育児が半ばボイコットされたまま高度経済成長期へのノスタルジックな夢を見るような愚かしさへの呆れというとてもわかりやすい要因がコインの表面であり、またその裏面にはあまり言語化されていない根深い共同意識のようなものが関与しているのだと感じます。
なぜ、今オリンピックにしらけるのか
わかり切った理由と、水面下に根ざす集合意識の両輪がTOKYO2020・AKIRAをまさに現実のものとする。
今回は水面下の意識について、あくまで自分なりにですが肌感覚で受け取った印象を記すことにします。
【理由】
・(遠因として)インターネット環境がもたらした同時多発的双方向コミュニケーションによりSNS上に生じた「無尽蔵かつ盲目的な自我の拡大への欲求」に限界が見えてしまったから
「バズる」
「ネットカルチャーからムーブメントになる」
というストーリーはここ数年、ドラマ、映画、漫画などのフィクションにおいて無数に繰り返しイメージされてきました。
具体例がパッと出てこなくて恐縮ですが…でもわざわざ有名な作品名をあげるまでもなくイヤというほどそんな感じのストーリーに触れていましたよね。(別にイヤではない)
しかし流石にそれはもう、そこまで有効な語り口ではないという気分はなんとなくおわかりいただけるものと思います。
従来的ないわゆる
「バズり」
には資本主義を半歩進めたような「評価主義」がその価値を担保する物差しとして存在していました。
それは「他者の評価」をリアリティの根城にするという側面ではかなり似た質感であるがゆえに直感的に理解しやすく、また経済的なものへの転換も比較的容易です。
しかし、ネット上で無数に得られる「評価」が果たして
『価値を担保する物差しとして機能しうるのか』
という根本的な疑問がここに来て生じているのではないかと思うのです。
身近な表現に置き換えれば「バズったからといって商品として売れるとは限らない」というような言説に近いのですが、もっと根本的に無尽蔵に拡大する自我への欲求を担保するシステムを支えていた根底の価値が崩壊しかかっているのではないだろうか。
それはネット上で他者の反応だと思っていたものが実は「bot」だった。という話ではありません。
もちろん中にはbotも含まれているものと思いますが、そもそもソーシャルネットワークという
「無尽蔵に自我を拡大する欲求を喚起するシステム」
によってシステマチックに裏ごしされた行為の総体は果たして個別性を持った「人格」と言えるのか。
つまり、プラットフォーム上で「拡散」のために一定水準を超えて効率化された情報は、人間からある程度機械的な反応を引き出すことが可能ですし、またそこで行われる効率化は完成することはなくても無尽蔵に執行されることで時間が経過するほどより正確性を増していくことになります。
私たちはアナログな質感の海を各々がバーチャルに置き換えることによって世界を認識していますが、このアナログとデジタルの間に生じる境界線上の「毛羽立ち」質感を情報に変換する過程でやむなく加えられる機能的限界、無理やり型に嵌めることで生じる圧力のようなものがこの私が私であるところの不条理極まりない確信が無尽蔵に自我を拡大する指向性を持ったソーシャルネットワークに繋がった時に発生するプロセスがこの真逆というか
最大限効率化された機械的「共感」をアナログ身体に再展開し適応する試み
によって、まさに人間は人間の機械的素質を抽出したダミーになることに成功しているのではないか。
ここで「成功している」主体はなんでもいいのですが、あくまでこれは環境適応です。
最大限の効率で最適なことを試みた結果、人間性のようなものはスポイルされて目的に対して純化した総体が発生した。
それが駆動し続けるのかやがて停止するのか分かりませんが、(恐らく停止するでしょう)この大きな駆動輪は我々の「人格」というイメージに対してインスピレーションをもたらしました。
ここ数年で初音ミクの人格というか、主体性のようなものがいつの間にか雲散霧消したように見える奇妙な現象が発生した(少なくともクラウド化された二次創作の保管庫程度に矮小化された)のはその為ではないかと思われます。
無数の妄想や願望が投影されて無尽蔵に自我を拡大するかに見えた初音ミクは、
過渡期におけるバブルの様なものでしかなく、蓋を開けてみれば
実はシステム上のバッファを担保する空間に過ぎなかったということです。
(とてもショッキングですね)
では、自我の無尽蔵な拡大・拡散という想像力が有効性を失いつつある今、私たちはどこに評価軸を見出すのでしょうか。
ここでやっと
「じゃあオリンピックどうなの?」
という話になります。
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