「良かれ…!」と思って大失敗
「良かれ…!」と思ってやったことが大失敗ということは人生の常であり、私自身も度々失敗の経験があります。
よくある話です。
良かれと思って唐揚げにレモンをかけてしまった…良かれと思ってハラスメント体質の彼氏と別れるように説得してしまった…良かれと思って美大受験を勧めてしまった…
厄介なことに、こういった失敗ケースにおいて「良かれと考えた側」に「実はよくなかった」という意思を確認する手続きには複雑な工程があります。さらに輪をかけて理不尽なことにそのコストは常に「良かれと思われた側」に支払いの義務が生じるのです。
不運にも「良かれと思われてしまった」側はその場で煩雑なコストを支払ったところで得がない…
なぜこんなことが起きてしまうのか。
「苦労は買ってでもしろ」とはよく言われます。
しかし、そもそも「買う」つまりは
「能動的に獲得した苦労」と、
「不可抗力で抱えた負債としての徒労」
は比較対象になっていません。
「買ってでも」
という表現について、金銭的コストの支払い自体に注目がいきがちです。
貧しいがよくある「全てを経済的価値に置き換えたところでやっと身体的な実感を伴う想像力」(資本主義に過剰適応している精神状態)においては、それが「無料の苦労ならなおよい」という発想になってしまうのですが、絶対にそうではありません。
それならば「苦労は買ってしろ」という言い回しになるはずです。
「買ってでも」とは「仮に金銭的コストを支払ったとしても」という意味であって、この場合の経済的コストは意志の強さを強調する補助線にすぎません。
「買ってでもした方がいい苦労」は、それが無料であるならばむしろしない方がいいのです。
そんなことも分からない方が適応しやすい社会だから、しない方がいい「無料」の徒労が今日もあちこちで繰り広げられてしまっている。それが、残念なことに我々が日常生活を送る、洞窟から半歩足を踏み出しただけの野蛮な共同体の現実なのであります。
私自身も、いまだに忘れがたい強烈な「良かれ…!」の洗礼を受けたことがあります。
発達障害の治療薬を服用し始めた時のことです。
「しずはしずのままでいいんだよ」
と、真顔で言われました。それはそうでしょう。私だってそうです。
私が、あなたの立場だったら、ユニークで失敗が多くてどことなく奇妙で朗らかな友達はさぞかし面白くて良いのですが、それが自分だったらどうか。
「いや、
私は、
よくない」
「いい」とか「悪い」とかの話ではなくて、そもそもまともな人として当たり前の生活や労働ができないのですから…そのような高度な倫理観に基づいた贅沢な議論を挟み込む余地というものがございません。(※)
これは視力矯正のためにメガネをかけた友人に
「眼鏡なんてしない方がかわいいよ!」
というのと大体同じです。そんな事は、本人が、一番、よく、分かっている。
鑑賞する立場からすればそうなんでしょうが、本人には本人の事情がある。
ただこれが、ただただ
「良かれ…!」
であるという事は、痛いほど伝わってくるのでそれ以上は何も申し上げることができない。気持ちは、とても、ありがたい。
ここで改めて「良かれ…!」に潜む問題を洗い出してみます。
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