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空(くう)の上に空(くう)を建てるとこうなるよ像
大学入試の時に、論文試験の問題文に
「空(くう)の上に空(くう)を建てるな」
という一文があった。
「空虚な前提の上に空虚な悩みの神殿を建立して、偉そうに悩みあぐねるのはひどくバカバカしい」という趣旨の文章だったと思う。今でもしばしば思い出す。大学入試の試験をやっている最中に読んだ文章だから、本来はいかに出題者の意図を読み取るかという点に神経を注がなければいけないんだけど、そーいうことはこの一文を読んでわりとどうでもよくなった。
なんでかというと、自分の人生や行いが軽んじられたくないという焦燥感によって繰り出される観念的かつ脅迫的な問題意識や現代アートのようなものの「問い」はここで指摘されているように2層構造になっているからこそ真剣に悩んでいる人を端から嘲笑しても平気なんだなと気がついて、従ってそれらははたから見た余裕があるだけで他は何もないのだとわかり(受験の最中にも関わらず)突然人生が一段階良くなったからだ。その気づきは受験という枠組みよりもより大きなものとして私の人生に働きかけてくれたし、知らんことに「知らんし」と言えるだけの気力(どっこいしょパワー)を与えてくれた。
どっこいしょパワーとは筆者の造語だが、観念的でスタイリッシュで権威ある風に見せかけられたよりも、泥臭くて血肉が通っていて「マジ」への入射角が際立っているもの、本人が必死でやっているものの方が信用できるし、その必死について何か言われてもなんら気にならない、ファミマの合宿免許の有線の音程度にしか感じないパワーのことを指している。
空(くう)の問題意識を掲げている人が自信満々でいられるのは、空(くう)が2層構造になっているからで、2層目には空虚な問題意識があるとして、その1層目には
「自分の人生を丸ごと他人事のように眺めている計り知れないほどの膨大な恥知らずさ、傲慢さ、根本的無知」
が横たわっている。私はタイとかにある涅槃像はこれをじっと見ている(特になにもせずじっとご覧になっている)んじゃないかと思う。そういう状態のばかばかしさ、恥ずかしさに比べたら、マジであることのどんなみじめさや泥臭さも本当になんでもないくらい恥ずかしくはない。
なんでそんなことをわざわざ思い出したのか。それはごく最近自分の心のある部分の喪失に気がついてショックだったからだ。
先日岸田首相の演説中に爆発物が投げ込まれるという事件があったが、これに対する岸田首相の直後のコメントは以下のものであった。
「いま私たちは、私たちの国にとって民主主義にとって最も大切である選挙を行っています。この国の主役である皆さん1人1人の思いをしっかり示して頂かなければなりません。その思いで私は街頭演説の場に立ち続けます。この大切な選挙を、ぜひ国民の皆さんと力を合わせて、最後までやり通す覚悟です」
不要な修飾が多いが、要するに「大切な選挙をやる」と言っている。普段なら本当になんとも思わない内容だけど、命を失いかねなかった直後にこれかよ。
「これかよ」って事態に対して、自分の心は頑なに「ふーん」という感想しかないし、もう戻らないことがショックだった。ここに横たわる平坦さ、無感動さは私の命のある部分を侵食している。ショックを感じたことでギリギリ地面の上に立っている心地がある。
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