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『THE FIRST SLAM DUNK』感想文 もしくは桜木花道絶対いる論

 漫画『SLAM DUNK』を読んでいたときにはそんなこと思わなかったんだけど、映画として大人向けに再構築された物語を観ると桜木花道は極端に少年漫画のファンタジーを体現した存在なんだな感じた。少年漫画の主人公だから、そんなことは当たり前の話だけど、少年漫画らしいファンタジーを含んだ展開と、障壁に直面したキャラクターの生々しい葛藤のコントラストが全体の面白さを飛躍的に盛り上げているスラムダンクという物語にあって、映画では桜木ばかりが過剰にファンタジーの役割を担わされているように感じた。

 その役割の負荷は、ほかのキャラクターが背負っていた地に足のついた葛藤よりも圧倒的に重い。深刻とも言えるほどに。なぜなら物語が終わるときにファンタジーは失われなければならないから。いや、もちろん全ての物語でそうではない。
 し、現代では「ファンタジーが現実を浸食し浸透し切った結果、ファンタジーを俯瞰できる冷静さを持った人間が疎外されてしまう」ような状況を描いた方が説得力があるのかもしれない。でもそれは「今この瞬間、どうやって真剣に生きたらいいのか分からなくなっている現代の人の悩み」なのでこの場合にはふさわしくない。スラムダンクという物語においてはもうすでに全員真剣にバスケをやっているから。真剣にやるとどうなるのか。

 漫画のスラムダンクは徹底して子供にバスケの魅力を伝えるために描かれているから、桜木は子供に夢を見せるためにいる。漫画の桜木は子供にバスケの魅力を伝える役割を十二分に果たしていたが、映画の桜木は最初からファンタジー生物のように見えた。だって、物語が明らかに大人に向けられていたから。いや、子供が観ても心から楽しめるのは間違いないんだけど、これは少なくとも子供に大いなる希望を抱かせる奇跡の物語ではないと感じた。私は何を見ているのか。

あらん限りの熱情の込められた事実(やったことしかやったことにはならない)の物語を見せられている。

 少年漫画のファンタジーっていうのは「やってないことがやったことになる」側面がある。例えば、桜木のようなある意味では「恥知らず(無敵の心を持ったままでいる)」のキャラクターが活躍したりもするんだけど、現実的に考えるとそれってすごくファンタジーだな、と思う。

 恥知らずな人が活躍すること自体がファンタジーというよりも、「恥知らずな人が、恥知らずなままの自分で、誰にも観られていないところで一人で地道な努力や練習を積み重ねられる」って状況がファンタジーだと思う。なぜなら、人間は誰でも恥ずかしい、悔しい、耐えがたい気持ちを真正面から味わわないと、地道な努力とかできないから。痛みやしょうもない恥に直面するいたたまれない瞬間をスキップして伝説の勇者のようにどんどん強くなっていく物語には勇気がもらえるし、子供なら成長していく自分への尽きることない希望が湧いてくる(それは素晴らしいことである)んだけど、もう成長しない大人がそんな話を何もかも真に受けているとそこそこ「イタいやつ」になってしまう。漫画だと無敵で最強の桜木がリハビリをしていて、もう無敵ではない(痛みのある現実を引き受けてチートなしに自分の力だけで情熱を燃やしていける)様子が描かれる。そういう風に、最初は無根拠に与えられていたチートのような無敵感を自力で克服して本物の痛みに立ち向かっていけるようになる過程が描かれている少年漫画がいい少年漫画の一つと言えるんじゃないだろうか。

 自分の中にある無敵の万能感、全能感を克服しながら本気で挑む楽しさを知っていく過程が描かれる大ヒット漫画に『ヒカルの碁』がある。

(囲碁のルールが分からない人が読んでも猛烈におもしろい囲碁漫画の金字塔)

※以下に『ヒカルの碁』のネタバレを含みますのでご注意ください

 主人公ヒカルは最初無敵の力、万能のチートを天から与えられる。それは平安時代に生まれた囲碁の天才、佐為(さい)がヒカルの守護霊にとなり、打つべき最善の一手を常に指してくれるからなんだけど、ヒカルはそれだけでは満足ができなくて自分で打ちたくなる。そこからろくに碁石も持てなかった少年が(すご腕棋士の24時間マンツーマン指導付きという半ばチートの状況はありつつも)自力でいくつもの本気の勝負を経てプロ棋士として歩み始める。そして、佐為は消えてしまう。なぜならば、ヒカルは自力で現実に立ち向かって自分だけの力で情熱を燃やしていけるようになったから。ヒカルは佐為がいなくなった状況に耐えられずに現実を否認するが、葛藤の末に結論を出す。

おまえに会うただひとつの方法は
打つことだったんだ
 

(『ヒカルの碁』ほったゆみ・小畑健・集英社)

その後プロになったヒカルが韓国棋院の選手と戦っていく様子が(第2部のような形で一旦の休載と番外編の読切シリーズを挟んだ後に)描かれる。漫画『SLAM DUNK』で描かれなかった2部がもし描かれるとしたら、きっと類似した構造の物語になるだろう。ただしスラムダンクの場合消えなければならないのは桜木花道本人となる。桜木は幽霊ではないから消えはしないけど、おそらくは故障を抱えてバスケに挑む話になるんじゃないだろうか。だからスラムダンクの第二部は『リアル』(井上雄彦・集英社)という形で事実上描かれているのかもしれない。

 映画版では大人になった観客に向けて「プロになるのがゴールじゃない、たった一つしかない本気の情熱を燃やすことがそれなんだ」というメッセージをより補強した上で伝えてくれたように感じた。ただし、そうなってくると桜木(の無敵の力)は消えなければいけない。主題を子供に向けているわけではないのだから、子供に無限の想像力の翼を与える無敵のチートのような奇跡は起こしてはいけない。でも、奇跡はある。桜木の存在は矛盾なく肯定できる。奇跡は、無敵のファンタジーではないところにも実在する。それは「夢」である。誰が見た夢なのか。著者でも観客でもキャラクターでもファンタジーでもなく「バスケ」の見た夢なんだと思う。バスケは夢を見る。

 私はスポーツというものを愛したことがないから、スポーツが主体になって幻想を見る感覚を全く知らなかったんだけど、緻密に練られた画面構成を通して自分でも驚くほどすんなりと理解できた。バスケは夢を見る。バスケも。私はそれを知っている。百人一首や本やコーヒーやファッションや、多くの人が本気の情熱を傾けて愛したなにかひとつの文化、それ自体に注がれた熱情の蓄積が、社会と呼ばれるより普遍的な現実と隔絶したところに、もうひとつの地平を作り出して「夢」をみせてくれることがある。情熱を注ぎ込んだ先に一瞬の奇跡がある。それはわれわれにとって現実と全く変わらないどころか、それ以上の強度をもって成立している。


夢は叶うよ。本当だよ。


それは無敵のチートパワーとは全く真逆の領域にある。リアルを突き詰めたところに。願いは結実する。粗末な小屋の中で。ゼペットじいさんの屋根裏で。

人間はきっと、それをつかむために生きている。

 だからきっと桜木はバスケが見せてくれた夢で、だからこそ大人にとっても本物でマジで、誰でも自分の足で歩いて行けるところに彼はいる。

 どうやって会いにいけばいいのか。簡単だ。

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