ギャグは嘘ではない(むしろマジ)
最近、「ギャグ」って一体、なんなんだよってことをよく考える。
なんでかというと、日常会話が噛み合わなくて、なんだか決定的に取り返しがつかないことになっているときは大体、ギャグの対応に失敗しているからだ。「ギャグ」は、会社組織や農協など、いかにもシャカイ!という感じの場に所属して、社会の構成員としての役割を果たしている意識が強い人が言ってくることが多い傾向にあるように思う。地元に帰省すると、贈答品の箱を渡してくる年配の方が、
「ダイナマイトやで」
など、突発的にギャグを発表してくることがある。これには大いに困る。
自分が悪いのだが、まず真っ先に「嘘じゃん」と思ってしまう。
その次に「つまらないものの風刺としてダイナマイトと表現するセンスには光るものがあるけど、内実のつまらなさの根本解決には達していない」とか思ってしまう。三番目に自分の性格が悪い(悪い形で表現されてしまっている)ことを意識して、落ち込む。その間、言葉が出ない。視線を贈答品からスッと上げ、相手の表情に向けると、薄曇りである。そうして
「ああ、今私は会話を失敗して相手の方を困らせてしまっているのだなあ。なんとかならないかなあ。なんともならないなあ。この失敗は白日の元に晒されて、失敗であることがつまびらかに発表されるタイプの失敗ではない。だからこそ、なにか決定的に覆されることがない失脚の烙印として関係性の土壌に染み渡り、以降場のムードに影響を与え続けるのだろうなあ」
というところまで思考が到達すると、それまで怪しかった雲行きが一気に覆せない模様を見せて、雷雨が降ってくる寸前のような湿度をまとった雰囲気になる。それで、もうこの人とこれ以上親密になることはないのだろうなあ。もうすこし、うまくいく方法はなかったのかなあ、とかそういうことを考えてしまう。
ここで言う「ギャグ」とはなんなのか。
先ほどの例を元にどういったことが試みられているのか改めて考えてみることにする。
このように、「ギャグ」とは人類特有のコミュニケーション高等技術、だと思う。
私にとって、このような技術はオーパーツである。はっきり言って、ついていけない。理解の追いついていかなさをオーパーツに例えるならば、反重力機能が実装された土偶くらいに感じている。「ギャグ」に対してどの部分への理解が決定的に欠けているのか、ということを考えると根本的に
ギャグは嘘ではない(むしろマジ)
という部分が頭では理解できても心情思想の部分で飲み込めていないのだと思う。どうしても腑に落ちない。
言っていることがしっくりこない人もいるかもしれない。
こういったギャグの高等コミュニケーションスタイルが最も端的に表現されているエピソードといえば、よくある時代劇のイメージで越後屋が
「山吹色のお菓子でございます」
と言いつつ実際には賄賂を渡す行為対して、悪代官が
「お主も悪よのう」
と対応し、お互いに笑い、なんだかいいムードになっている一連の流れが相応しいんじゃないかと思う。このやりとりは先ほど定義した「ギャグ」の基本構造を満たしている。
ポイントは「山吹色のお菓子」という表現が別に嘘ではないという要素で、嘘ではないならなんなのかというと、なんと、それはそれで一つのマジなんだと思う。なんなら、賄賂を渡しながら
「これは賄賂です」
とそのままの事実を言っている人よりもよっぽど話のマジ度が高いのではないか。マジ度とは、この場合、現場でやり取りをしている人間にとってより臨場感が高いと感じられるご意見のことを指す。
人間は社会慣習に従って役割に従事しつつも、同時に「役割を演じる自分」を操作する自分により強く自我を感じていることが多いので、「操作している側からのオーディオコメンタリー的感想」を一旦、共有しておくとなんかホッとしていい感じの雰囲気が生じる、そういう側面があるのだと思う。
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