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マジの根本

 私はプロレスがなんだかずっと怖かった。それで大いに盛り上がっている場もなんだか怖い。怖いから考えたことはなかったが、冷静に考えたらその理由はプロレスって設定や物語は何もかも虚構なのに、暴力という一点のみがなんの脚色もないただの現実だからだと気がついた。

 しかしこれはなにもプロレスに限らず社会の色々がそうであって、メイドカフェなんかは帰ってくるご主人様もメイドもフィクションなのにそこで発生する(あるいは一方的な、あるいは双方向的な)情愛のようなものだけは本物である。戦争なんかも今やっているけど、開戦に至る建前はオリジナル創作小説みたいな感じなのにそこで人が死んでいる事実はどうしようもないマジでしかない。こうなってくると、いかにも白々しくマジのつもりでやっている感を醸し出している職場のオフィスとかよりもプロレスやメイドカフェの方が場合によっては誠実と考えることもできるのではないか。

 社会を成立させている根本は「交換」というシステムとそれにまつわる信用の総量である。したがって、ある日突然マジだけに覆われたマジそのものを突き付けてしまうとのっぴきならない、定量化できない、交換可能な商品以前の感情の原風景の広野みたいなものがただひたすらに広がって、どこまでいっても区切りをつけることができなくなってしまう。それでは交換可能な価値として機能させることができないから、ある一定のところで区切りをつけられるように、例えばスポーツという代理戦争の見世物商売には厳格なルールが定められている。行ったことはないが、キャバクラも「同伴」などの分かりやすく料金を支払えばデートができるシステムがあるから、働いている人は全員ペンネームだけど定量化した感情を扱うビジネスの中ではややスポーツに近い雰囲気がある。メイドカフェはもう少しややこしく、誰も恋愛感情を目的としていないという建て付けになっている。その中で『ハヤテのごとく!』みたいな摩訶不思議な展開が巻き起こらないとは必ずしもそういった奇跡が100%ないとは言い切れませんけれども、あくまでそこは「ご帰宅」や「お給仕」の場であるので一目散に恋愛を目的にしているやつは話の分からない筋違い人間として扱われる。キャバクラやホストクラブではわざわざ「ガチ恋」とか言わないのにメイドカフェの現場ではそうやって、定められた趣旨に沿うようにある一定の主体的な配慮が行われている。それは、ある程度共通の了解として定められた建て付け(コンセプトに沿った参加型劇場への出演)を各自が厳格に守っていないと、人間の感情の原風景(それはあるいは血生臭かったり悲哀と憎悪に満ちていたりする)が無尽蔵に広がって、定量化されていたはずの日常のシーンを覆い尽くして、根幹から成立しようのない無常に満ちたものへと変質させてしまうからだ。

 どちらがより優れているという話ではなく、格闘技のような暴力見学スポーツやホストクラブ、キャバクラ等の恋愛風接客サービス付き酒場と比べると、コンセプトカフェやプロレスの方が取り組んでいる内容としてはかなり複雑かつ高度である。感情定量化の方針として、一定の規則を設けてその内側で感情を取引するのではなくて、社会的にこうであると定められた現実とはまた別の枠組みをわざわざ用意してその中で感情的な部分を取引対象にしているのだから。

 どうしてこうも面倒なことをしなければならないのか。

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