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空前絶後バトル「真実 VS ミストサウナ」
「まやかし」と言うと、まるでありもしないデタラメだとか、あるいは何の役にも立たない逃避的願望や幻想をより集めた、無害な霧のような印象があります。
しかしながら、この「まやかし」の方が、実はより我々人間にとっての真実・真相に近いところにあるのは誤魔化しようがないのです。
人間は「まやかし」で死ぬことがある。
アウシュビッツ収容所での経験を綴った実践的思想書・回想録「夜と霧」にはこうあります。
我々は、食事に執着するあまり、日頃から食べ物のことを考え夢想した。そのような態度で、食事の素晴らしい点や、何を食べたいかについて語り合う行為を「食オナニー」と呼んだ。しかし、極度の栄養失調状態に置かれた人物が「食オナニー」をすると死亡してしまうことが判明した。私はそれを避けるようにした。(意訳)
真実は人間がただ生きのびることになんの役にも立たないどころか、情熱的に生存の邪魔をするのです。
「まやかし」という名の真実が克明に見えたからと言って、それをそのままに実行した結果、即・逮捕されるということも往々にしてあるでしょう。
なぜならば、真実が判明したからといってそれをそのまま自分の外側に取り出しても真実のままであるとは限らない、むしろ自分にとっては正真正銘の真実であるからこそ、自分の外側ではそれが真実ではあり得ないのです。
以前、ハウジング会社の企画でJR蒲田駅から徒歩15分くらいの住宅展示場の壁に絵を描いたことがあります。当時、数日ほど同じ道を通ったのですが、なぜか毎朝通るたびに自宅玄関から丁度1メートル程度の位置で直立したまま微動だにしない50歳くらいの男性を目撃しました。彼は迫真で己の真実・正真を追求しているのだろうと思われたのですが、逮捕寸前です。
このように、真実がはっきりと知覚できてしまうとなにかと生きるのが大変ですから、人類の五感には真実が見えも聞こえもしないようになっています。ただどうしたって、具体的な形はなくとも、それは蜃気楼のように、実利の周辺を取り巻いて、立ち上ってくるのでした。どうしたって。
ところで、「サウナ」ってなんでしょうか。
なんでしょうというか、それはもう蒸気浴と熱気欲の結びついた入浴施設ですとしか言いようがありませんが。
サウナによく行かれる方はご存知かもしれませんが、サウナには「サウナの真実」を追求するサドゥー(修行僧)の方がいらっしゃいます。私のような一般利用者は、サウナといってもせいぜい5〜10分程度、まあ入って、水風呂も入って何かスッキリしたような雰囲気を味わってオワリという感じですが、サドゥーの方は違います。なぜなら、真実を追求していらっしゃるからです。
サドゥーの方は、真実を追求しているだけあって、いつ行ってもいらっしゃいますし、簡単にサウナを出ようともしません。水風呂で冷気を得た後は、また己の真実に立ち向かうのです。一体サウナには何が。
私は現世を捨てサウナの真実を追求する身ではありませんから、はたから見た都合のいい意見しか言えませんが、おそらくこういうことだと思うのです。
「こうしていると、なにかが、良くなっているはずだ」
↑
すごい、
わかるよ。
わかりすぎる。
「毎日毎日、なにかが、良くなりたい」
明日は昨日よりも良くあってほしい。それも、輪をかけて。限界なく、よくなり続けたい。何か全てがという気持ち。そういう真実。そういう真実は、それ自体が実利・実益と結びつかない領域に確固としてあり、むしろ実益、例えば英単語を一日5語覚えるですとか、そういった具体を排除したところにむき出しになってそびえ立っているのです。
「ケーキ屋さんになりたい」
と言っている5歳の子供が、到底洋菓子をハンドメイドで500個作りたいと考えいるとは思えません。より真実・真相に肉薄していく為にはむしろケーキの材料などは絶対に用意してはいけないのです。
そういった意味では、「サウナ」は人間の真実・真相を追求する装置としてまさにうってつけであると言えるほどです。根拠はないが、何か健康にいい、よくなっている感じがある、ありそうな雰囲気であってそのような雰囲気には正解も不正解もありませんし、誰に口を出されることもない。ただ個人の真実が蜃気楼となって立ち上っているだけなのであります。
私はまだ魂のレベルが低いので、現世の利得を投げ打って「サウナの真実」を追求しようとまでは思えないのですが、サウナのサドゥーの方のなにかが良くなっているに違いないという信念と熱気が渾然一体となりオーラを発し、蜃気楼のようなまやかしを身にまとっている様を見るにつけ、あのサウナの入り口に配置されているなぜか必ずオレンジ色のタオルが本場インドの修行僧が纏っているオレンジ色の布に見えて止まないのです。
このようにして、サウナのサドゥーに一つの羨望の視点を持っていた私が別の形で真実を探求するチャンスに巡り合いました。魂のフィールドは、無論サウナです。しかし、サウナと言ってもそれは「ミストサウナ」だったのです。
なんでしょう、人類が背負う七つの大罪のうちの一つなのでしょうか。
現場の声を無視した偏見に基づく盲目的判断としか思えないのですが、「女風呂はサウナの代わりにミストサウナ」という入浴施設に出くわすことがあります。脳が泥なのか。サウナが無くてもいいから、代わりにミストサウナがあればいいのにと考えている人間がこの地上に一人でもいるとはおもえません。いるとしたらその人物はニューヨークを震撼させた連続殺人の真犯人である可能性すら考えられます。
まあしかし、なにもないよりは嬉しいことには違いありません。(それは大体全部そう)私は人類の原罪に想いを馳せつつ「ミスト」に入浴しました。よく考えてみると、しっかりと浴・ミストをするのはこれが初めてかもしれません。なぜなら、私もま現世の利得や合理的精神に心身を支配されている世俗的な人間の一人であるからです。悔い改めねばならない。
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