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私が優しい不毛な砂漠になれなくなったとき、二度と会えなくなる人がいる
例えば久しぶりに会った人に
「自分はバカなので……」
なんて言われてしまうと悲しい。これがバカでなくても様々な自己憐憫について意見、感想を求められるパターンがあるが、やっていることは変わらずもれなく全部悲しい。
悲しいというか、今ここで波打つ私の半解凍の刺身のような温度の感情を細かく分解していった先には、わりと単純な徒労感しか残らないだろうということが私なりの人生経験で予測できてしまう情緒の結論に包まれていてむなしい。やりきれない。20歳くらいまではそうでもなかった。さざ波のように情緒が打ち寄せる赤暗い夜のどこかに、探せば宝石とまではいかなくても、ちょっといい貝殻くらいでしたらあるような気がして、少なくともどこかにそれがあるかもしれないと思い込むだけの余白はあるような気がして、がんばれた。がんばれている時点でそれは「ない」。わかってはいるけどひとまず手を取り合ってどこにもありはしないものを一緒に探すだけの冷たくて滑らかな砂漠のようなベージュ色の無知があった。それが、今はもうない。もうわかってしまっている。ここにはなんにもない。がんばれるか、いや、ない。わたしはがんばれない。ごめんなさい。がんばってがんばったところで何の意味もないと思うし。その上もうちょっと君自身、頑張った方がいいだろと思う。頑張らなくていいことをがんばるのをやめて頑張った方がいいことをがんばれよ。そういう方向性の選択ミスまで人のせいにするのは無理だし、私の痛覚を刺激することでご容赦をされようという魂胆が同情しきれない根本の原因となってしまっている。
ここに現れているものはどの時空間においても再現可能な構造の連なりでしかなく、単につかれるだけなんだ。連なりを意識するときの私は悲しいとかでもない。本人の手前、悲しそうなそぶりをしているだけで、疲れている。だから帰るための言い訳を考えるしかなくなる。それは普通に悲しい。友達に言い訳を考える羽目になっているのがまず悲しいし、今、目の前にいるあなたに対して最大限合理的な手数で対処するための処理手順を構築するシステムのような存在としてしか関われなくなっていることが悲しい。この悲しみは一方的な悲しみであって、目の前のあなたと関係なく何か画面を隔てているような関係の悲しみでしかないことが悲しい。そしてこの二次的悲しみは、やはりつかれる。
私はこんなにも打ちのめされているのに、それが誰にとってのなんの得にも繋がっていないのもつかれる。強いて言えば、あなたは誰でもいいなんでもいい他の人間に対して心底疲れるようなことを口走って、なにもかもを理不尽に剥奪してくる悪辣非道な世界の仕打ちに対して一矢報いたような気分に小指の先を浸した程度の効能があったのかもしれない。そうなったとき、私の価値は板ガムよりも低いものとして貶められている。私はなにか、罪悪感なく心のゴミを捨てられる存在だと思われているのだろうかと考えてしまう。でもそれは違う。目の前の人間にそこまでの悪意を持つほどの覚悟はないし、そもそもそこまでの考えもない。なにかもう少し考えがあってほしいと願うのは、あくまで自分が人間扱いされていてほしいと、自分にとって都合のいい現実が目の前に広がっていることを希求する希望的観測に過ぎない。事実はもっと荒涼としている。ソファーにもたれ掛かるときに、背もたれに対して罪悪感を抱く人がいるだろうか。それと同じで、あくまでもたれかかれる機能としてのみ私の存在は相手の世界に現れている。だから今すぐにここから離脱しなければならない。実にもっともらしい理由を付けて、ソファーの背もたれが突然剥奪される権利喪失の失望と怒りを相手の内心に感じさせないように、できるだけマイルドに。静かに、スタッフロールを眺めながら余韻に浸っていた映画館がいつの間にか静寂に包まれていたように。
私が背もたれになってしまっているのはあなたの性格が悪いからではない。私の善良さや悪意が足りないからでもない。単に余裕がないからだ。得られていない事実に気を取られて心に余裕がなくなっているだけだ。これも悲しい。余裕がない人間には優しく接することはできないという事実は悲しい。この事実には介入する余地がないし、どうにもならない。優しさは常に有限であり、優しさは有限であるということを知らない人はそれを適切に享受することができない。
仕方がない。自分が犠牲になったところでなんの意味もない。無限を想像することは果てしなく困難であると思うけど、虚無はもう少し具体性を帯びたものとして捉えられる。なんの意味もなかった、やらない方がマシだった数々の自己犠牲的奉仕の果てに抜け落ちた人間性の残骸がかろうじて人らしさを保とうと過酷な忍耐に立ち向かうとき、逆説的に抜け落ちたものの喪失感がクッキリと浮かび上がる。その強いコントラストがもたらす高所への恐怖に似た「めまい」が虚無という捉えがたいものの質感の一端を示している。
「バカ」なんて、随分偉そうな物言いだと思う。傲慢である。本人は謙遜をしているような気分かもしれないけど、なんもしないでボンヤリ立っていたら誰だって大バカ者でしかないのは当たり前だと思う。人間が生まれつきバカなのは平等なんだから、その事実はどちらかといえばありがたがっておいた方がいいんじゃないだろうか。どうして自分だけはなんにもせずにバカではなくなれる権利があるとか思っているんだろう。そんなのは思い上がりだし、生まれつき万能の知力みたいなものが与えられていたら全てが面白くない
しかもこの地球上で自分だけは、なにか自動的にコンベアーの上にでも乗っかっているようにバカではなくなれる権利が与えられていたはずなのに、そうであり得たはずの特権が剥奪されたとでも言わんばかりの被害者意識をうっすら抱いている。そんなわけがないだろ、バカ。目を覚ませよ。全員バカなんだよ、バカって言ってあげたい。でも本人が自分のことをバカとか言って、哀しいしそんなことを言われてしまった自分も気の毒だからからなんも言えない。
少しくらいの自己憐憫は人生にわかるかわからないかの頬紅を薄っすら入れるような密かな愉しみが、悦楽が、もしかしたらあるのかもしれない。でもそんなのはごめんだねと私は思う。
そんなものを終生大切にして、そんなのって見てられないよ、と思う。わかってる。本人にとってそれが宝っていうなら、それが一番大事じゃん。それが宝って言うのならそうなのかもしれない。でも他人を巻き込まないとその宝の価値に満足できないってことは、本当のところはそれは宝なんかじゃないと思う。私からみたそれがガラクタであるのと同様に、あなたから見てもそれはガラクタであると思う。しかしそんな発想を口に出して言ってところで、誰かの幸せが増えるということは全然なくて、歪めなければいけない現実認識の鏡面上の歪みの幅がどんどん大きくなっていくだけ。私だって私のレンズでものごとを認識しているだけなのだから、どっちがより現実に即しているか、なんて問答は最初から無意味である。じゃあ照らし合わせようとしない方が相手に親切なんじゃあないだろうか。自分の幸せにつながらない無意味な苦労は当たり前に誰もする必要がない。だから帰ろう。それでもあなたは、ありもしなかった優しさの砂漠に囚われている。それも仕方がないことなのかもしれない。こうしてもう会えなくなってしまう人がいる。
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