犬にも「レイヤー」がある
線路沿いに住んでいたことがある。隣は一軒家で、巨大な犬を飼っていた。ボブ・サップが四つん這いになったくらいのサイズだ。
線路は単線だった。周囲はブルーベリー畑があった。驚くべきことに、これは都内の話だ。単線沿いには、地平線まで続くのかと錯覚しそうになる程特徴のないのどかな住宅街が軒を連ねていて、夕暮れは一斉に赤くなる。ほとんどグラデーションがない、一色の赤だ。赤い赤い、赤すぎる沿い。沿いにボブ・サップがいた。隣の犬だ。赤い赤い、でかい赤い犬は、線路沿いの草をモグモグ食べていた。極度の異常性に最初は特に何も感じなかったが、徐々におかしいと気がついた。
犬がこんなにも草をモグモグ食べるなんて
動物が人間と社会的に侶すると、極度にデフォルメされていく。
例えばニワトリが「コケコッコー」と鳴くのはやりすぎだと思う。アメリカのニワトリは「クックドゥルドゥー」と鳴く。そこまでしなくてもいいよ、なんというかもっとリアルな感じで存在していても、私は構わない。そう思うのは、私が比較的ロハスな人間だからであって、社会一般というものは厳しく過酷であり社会的に生存する動物の生々しさを決して許容しない。
ここには一つのヴァーチャルリアリティーが発生している。私はそういったヴァーチャルを長年当たり前のように真に受けて生きてきたが、線路沿いの草をモグモグ食べている犬を見て私が信じていたものが、一つの虚構に過ぎないことに気がついた。犬の「過度な」犬らしさ。猫の「過度な」猫らしさ。それらはやはり社会というシステムの中で構築され演じられているものである。
人間が存在する以上、社会的な規範は必ず発生するが、規範概念は集団の性質によって変化する。インドに行った時に確信した。やはり犬は、「犬」をやりにいっているフシがある。インドの犬は、お国柄を反映してかあまり真面目に「犬」をやってない。警察官の「ポリス感」の出し具合が国によって違う感じに似ている。インドはポリスもそこまで「ポリス!」というムードではないし、犬もそこまで「犬」をやってこない。ではどうしているのかというと、暑いのもあり川辺で地面にへばりついたガムのようにだらんだらんに伸びて、尻尾で蝿を面倒くさそうに追い払い、見かけない人物(私)が近寄ると最低限の礼儀とでも言わんばかりの感じで「むぇ〜ん」と一応、鳴く。これが犬と言われても、かなり厳しい。やはり私の脳内はかなりヴァーチャルに染まっている。
その後日本の犬を見ると驚くほど真面目であって、今にも棒を拾いに行きたそうな目つきで「ワン!!」と鳴き、ボールが好きですという顔をして喜び、実際に好きかどうかは謎だが骨のようなおやつをぺろぺろしている。「ワン」は流石に「ワン」に寄せているなと思った。地面がグラグラして飲み込まれそうな感覚。
なんということでしょう。
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