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シリーズ他人の大学:大人になってから考える友達のやり方 Q and Aコーナー(後編)

【質問】 人を信じられなくなってしまい、今後どうしたらいいのか分かりません。
【答え】 OK

 確かに、他人が信じられなくなるのは大変悲しいですが、少し目線というか、比較対象を変えてみるとどうでしょう。自分が信じられなくなるよりは他人が信じられない方がよっぽどマシな気がしませんか。そもそも他人って他人なので、信じるもなにもという話ですし、実際にできることと言えばせいぜい相手の行動を見て、こちらがそれに見合うだけの信用や信頼を付与していくくらいしかありません。喜んでいいのか分かりませんが、他人は他人なので世界中に沢山います。付き合う人間も自分で選んでいくことができます。

 それに比べて自分は。全ての行動が意のままになり実力や結果を常に思い知らされる上に、絶対に替えが効かず嫌になっても離れることすらできません。一度信じられなくなってしまったら終わりです。全く信用できない人間の渦中で、それでも生きていかなければならないのですから。

 私は、本当の地獄はこちらだと思います。他人が期待通りではなくても、それはもう仕方がないことです。幸い他人は自分ではないので、充分な距離をおくことができます。しかし自分だけは一生自分なので何があってもずっと一緒にいるしかありません。他人に付与した信用や信頼を持ち逃げされてしまったら、その分部屋を片づけて、気に入っている服にブラシを掛けて、ストレッチやウォーキングをして血行を良くしたら、その日はゆっくりお風呂に浸かって早めに寝てしまいましょう。そうして次の朝少し早めに起きたら、近所にいいパン屋がないか散歩をして探してみたり、読みたかったけど忘れていた本を読んだり、やりたかったことをノートに書き出していい時間を過ごしてみましょう。すごく簡単なことでいいので、やりたいけど忘れていたことを思い出して一つずつ淡々とやっていくと、自分がジワジワ信じられるようになってきます。そうなると自分との約束を守れるようになったりそもそも守れもしない約束はしない(自分への過剰な期待に苦しまない)ようになるので、徐々に他人が信じられない(根本的に信じようがない)という事実はある程度の段階まではどうでも良くなってくる気がします。だって、他人だからね。


【質問】何にも興味が持てず、誰とも仲良くできません。人に興味を持たれる人間になりたい
【答え】 OK

 かなりショックな現実ですが、つまらないのは世の中ではなく自分の視点や感性であるということを一旦は認めた方が結果的に得です。認めるのはイヤだし心情的にダルい部分もありますが、結局この精神的方針をとったケースにおいて最終的に得られるものが最も巨大になるので、得としか言えないのです。

 問題がこちらにあるとはいえ、それで何か人間的にダメとか悪いということは全くないので安心して最後まで読んでください。強いて言えば環境要因によって人間全体が無気力に陥りやすくなっているという話をしています。それは無気力でも無気力なまま生きていけるということなので、「良くなっている」という見方もできると思います。

 そもそも、世の中一般に対して積極的に「何も面白くない」と感じている人は、単純ではないものに飢えていたり興味深いものを渇望する気持ちがある一方で、同時に過剰な興味や好奇心を発揮することで社会から逸脱してしまわないように日頃から我慢、抑圧して(させられて)いる実感を抱いている状態にあります。

 私も中高生の頃はこうだったのでかなり気持ちが分かると言いますか。特に2000年代後半頃までは過剰さや逸脱に対する社会的な淘汰圧が明らかに強かったので面白さを優先して生きる行為には「常識的な範囲を逸脱した過剰な読み取りや情報への接続=(社会的な)死」というくらいの重みがありました。したがって、面白さの為のオリジナルの逸脱がある程度「死」をベットしないことには得られない、ある意味では神聖な(同時に忌避すべき、唾棄すべき)行為だったと言えるのではないかと思います。

 それは大きく不自由である一方で「読みをつまらなくさせられている私」という自認も簡単に得やすい状況下であったと言い換えることも可能です。それでは、現代はこのような社会性による過剰さ・逸脱への淘汰圧は無くなったのかどうかと言えば、劇的に減少したと言えるでしょう。じゃあ問題は解決したのだろうか、と言えば全然そんなことはありません。人類は全く別の形で過剰さや逸脱を抑圧し続けているのです。別の形の抑圧とは、なんでしょうか

 それは「合理性・最適化による淘汰圧」です。

 ありとあらゆる媒体に予め最適化された捜し方、受け取り方が貼り付けられている。最小限の時間で最大限の興奮や刺激を受け取る最高効率の手段に逆らってまでわざわざ過剰な読みを続けるためには、強い動機が必要です。強い動機を発揮すると、やはり社会はすんなりとは受け入れてくれない。多様性、ダイバーシティーと言って、一見幅広い価値観が認めらるようになったようでありながら、認められるのは既定路線の「安心の多様らしさ」だけであって、実際のところ本気でオリジナルの意見を述べる最先端の魂は迫害され続けるのがいつの時代も変わらない道理です。そんな道理に一々ショックを受ける必要もありません。だから、こんな自分を受け入れられてくれるかもしれないと思って過激なまでの合理性に迎合してはいけません。マシな行いにシンプルな答えはありませんから、判断を合理性に丸投げしてはいけません。それは常に大切なものを奪ってあまりにもささやかな報酬をくれるだけなのです。

 揺り籠から墓場まで、あらかじめ予測された合理性の範疇で最大限の単純化された刺激が与えられ続けるフィールドで、それは荒涼とした一面の砂漠にテクスチャーとしてのネオンが貼り付けられたような騒がしく均一でのっぺりとした匂いも質感もない世界であって、自分が生まれてくる以前からずっと世界というものはそうであったかのようにも感じさせられたりもして。それはつまらないが合理的で効率的である。それでも少し前の人類の野蛮さと比べたら、まだマシでまだ少しは希望がある世の中にはなり続けている。その構造がいつまで保てるのかは分かりませんが。

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