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痛恨の人間味
この時期になるとTBSで『SASUKE』の特番が放送されるので、山田勝己が泣きながら「俺にはSASUKEしかないんですよ」って言ってるシーン(2002年秋第10回大会墜落直後)がフューチャーされる。この場面って、概ね少し笑えて少し勇気がもらえるシーンとされているのだろうし、それはそれで間違ってないけど、山田本人はバラエティ演出上の扱いよりも二段階くらいは深刻に「SASUKEしかない」と言っているんだと思う。例えるならば、世界の全てが断崖絶壁に覆われて、目の前にはただSASUKE(主にスパイダーウォークやそり立つ壁)だけがあるといった感じ。番組上の編集だとこう、深刻であることは伝わってくるんだけど、山田の側にもうちょっと選択の余地がある印象を与えているというか。「俺にはエベレストを登頂するしかないんですよ(だからやらなくてもいいけど来年もチャレンジします)」くらいの、多少余裕がある葛藤のような扱いになっている。気がする。というか、テレビ的にはこれくらいの余白がないと感動を通り越して、人生というものに実は定まった形がないという恐ろしい事実(リアリズムの極致)が露呈してひたすら怖くなってしまうので、多重債務者のような切迫感はスポイルして丁度いい温度で受け取れるようにしつつ、見る側が読み取ろうと思えばもうちょっとマジな部分まで読み取れる温度に調節しているのだろうか。
山田は一見、意志が強くてストイックであるように見えもする。でも実際は真逆だと思う。意志があまりにも弱いから、世界がSASUKEしかない絶叫の僻地なるまでSASUKEを辞めることができなかった。本当はもっと早くSASUKEをやめた方がよかった。だから山田勝己から目が離せなくなってしまうし、目を離せないからこそ山田勝己はSASUKEをやめられない。そうやって、絶対に手に入らない神話の幻影を追い求めて墜落という原体験の自己模倣に終始する田舎者と視聴者によるマッチポンプイカロスの断末魔が毎年インターネットを賑わせる羽目になる。東京の夜には星がないから、私は東京の空の羊羹みたいに薄淀んで何もない暗がりのことを「山田勝己座」と呼んだりもする。だって本物の星を山田勝己座にしたら、それは山田のSASUKEに嘘をついていることになってしまうから。昔ながらのコーヒーが全然美味しくない喫茶店で、お湯を足して加熱したコーヒーをすする時、落下した沼の味ってこんなだろうか、とか思ったりもする。沼のようなコーヒーにはクリープを入れるしかないのと同じだ。
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