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「バレ」の時代
・世の中全体で話が早くなってきている
近年、SNSを見ていて
「この人ちょっと、バレちゃっているなあ。言ってることと、やってること、見られたい自分がバラバラで、そのせいでかえって本人のストレートな欲望、心の絶叫が全部露わになってしまっているなあ」
と思うことが増えました。
近年というのは、具体的は2019年初頭に新型ウイルスの流行によって生活スタイルが一変した辺りからです。
私はもともと「生きるっていうことは結局全てがバレるってことだなあ」と思っていたので、隠しているつもりの心の声がバレバレになっている状況を見ても、大きく驚くようなことはありませんでした。ところが、2019年以降、どうも私だけでなく世の中全体の傾向として余計な上辺の情報を回避してストレートに物事を受け取る傾向が徐々に強まっているように思えるのです。
飲み会に行かなくなった、無駄な打ち合わせや電話が明らかに減った、見栄などで高い服を買うよりも、本当に着たい服か、もしくは着心地のいい服を買うようになったという行動様式の変化もその一環です。これらは感染リスクを避ける合理性からくる行動原理でもありますが、合理性以上に「もう余計なことはやっていられない」というムード、社会の気分がかなり高まっているように感じられるのです。実際に、私が社会人三種の非合理神器と呼んでいる「実印の捺印、最初は対面での打ち合わせ、どうでもいい確認の電話」はかなり少なくなりました。これらは確かに非合理ですが、そもそも合理的かという観点を排して気持ちの問題だけで続けられていた無意味なビジネスの神に捧げられる儀式なので、合理の問題だけですんなりなくなるのは不自然です。やはり、急に世の中全体の話が早くなってきた根本には、何かそうなるだけの理由があるのではないでしょうか。
・「差別化」の終焉
このような社会全体の話の早さに関係するのではないかと思われる現象があります。それは、2020年代に入って、差別化のモードがかなり下火になってきているように感じられることです。差別化とは。70年代以降に個人が消費者として縦軸(価格・質)か横軸(センス・個性)のどちらかあるいは両面で周りの人間と差別化し自我を確立していたムーヴメントの終焉です。終焉というか、人間の仕組み自体は特に変わっていないので個人の欲望としては差別化をしたい気持ちはずっとあるのだと思いますが、システムの側がそれを許さない状況が広まっているのではないかと思うのです。
具体的には、SNS上に発信された個人の意匠(差別化のための工夫)が、発信された途端にアメーバ上に広がる緩やかに溶け合い液状化したある文脈を持って立ち現れる連続的な自我に飲み込まれて同一化するので、本来相反するはずの「差別化/同一化」が同じ現象として現れていると言ったらいいのでしょうか。個性を出そうとするといっそう没個性的になっていく。これ自体は今に始まったことではありません。今までに存在したあらゆる流行は、初めは「差別化」として現れ、次第に「同一化」へと変質していくタイムラグ上に発生するものだからです。
果たして人間という社会的生き物の「個」の単位は個人なのか、本当のところは、ある程度の群れ(文脈)を成す集団が「個」の単位であって、個人とは「個」の中の一つの細胞にすぎないのか、この辺りが終始混濁し続けているのが人間の人間っぽさ(生き物としておもしろさと可哀想さが融合してしまっている側面)なんじゃないかなあと思うのです。
話を流行に戻すと、つまりは本人が差別化しようとしているかどうかよりも、流行タイムライン上の先端にいるかどうかが「差別化」の根本的要素と言えるのですが、現代はこのような流行を生じさせうるタイムラグを同時多方向的通信が一瞬で埋めてしまうので、情報から時間軸が失われてしまいました。
そうなってくると、それでも差別化をしていくためには周囲とは根本的に違う価値観の軸を自らの手で生み出すしかありません。これって別に、差別化しようと思っていようがいなかろうが、従来的にやっている人はやっているし、やっていない人はやっていないことです。つまり、根本的な価値を生み出す仕事をやっている人、実力者が最先端にみえるような場所にいるということになります。
実力者っていうのはすごいはすごいんですが、あまりに独自性が高く真似をするのが難しいので、かつてはムーヴメントにはなり得ませんでした。代わりに実力者が作った価値を翻訳、コモディティー化(一般化)して真似できるようにする今で言えばインフルエンサーのような仕事をする人が沢山います。従来であればインフルエンサーの人が実力者に変わってオシャレのタイムラインの最先端にいたと思うのですが(実力者を広めるのにもある程度の実力を理解する実力が必要だった)、現代のインフルエンサーは空間的な影響は大きいものの時間的な影響がほとんどありません。その意味では既に同質化し終わったものをグローバル化のスケールメリットを活かして広げる職業とも言えます。つまり、オシャレどころか、ほとんどなくなったタイムラインの最後尾側を追走しているのがインフルエンサーとも言えるのです。それがいいとか悪いとかいう話ではなく。
しかし情報の流通が圧倒的に増えた現代では、むしろ実力者(新しい価値観を作り出す人)の周囲くらいにしかタイムラインが発生しません。だから実力者とインフルエンサーの位置が逆転している現象が起きているのではないか、と思っているのです。
インフルエンサー(広める人)がタイムラインの最後尾にいて、実力者がタイムラインの最前線にいるとなると、それに伴って世の中全体の見え方もかなり大きく変質します。一言で言うと、実力(従来とは違う合理性と独自性のある価値観の軸)がないのに「やってる感」(タイムラインの上流にいますという態度)を出しすぎると、ギャップでものすごくダサい、ショボい、(内容が)チープであるということが露骨にバレるということが生じてくるのです。
・バレがバレのまま許容されている状態
従来の慣習で「バレていない」っていうことになっているせいで一応成立しているけど、事実上はもうバレているしばれるしかなくなっているものって結構あります。「サステナブル」などはその典型だと思います。とりあえずこれを言っておけばオーケー(手抜き)、今からこれを世の中全体で広めていきます感を出せばオーケー(傲慢)、内容は過去に取りざたされたものの焼き直しでしかない(無価値)、と三拍子揃っているからです。そもそも「持続可能な社会」の「持続可能」って、なんでしょうか。普通にわからない。いつからいつまで持続するのか、可能とは何を持って可能とするのか。なんにもわからないし決まっていません。言い出されたのが現在であれば、流石にここまでの言い逃げは通用しないでしょう。でもバレても大丈夫なのです。なぜなら、「バレ」という状態もタイムライン上に情報の格差があるからこそ生じる状態であって、初めから情報の時間軸が圧縮されてほとんどなくなっていたら、「バレ」たものが「バレ」たまま、堂々と市場に流通しているのはある意味当たり前の現象とも言えるからです。
こんなに抽象的な目標、絶対に達成できるわけがないのに(達成しようがない)色々な場所で繰り返し用いられるので、お手上げの感だけが伝わってくる。地球規模の話となると抽象的でも違和感がないが、人間一人の規模に置き換えると「いつか大富豪になる」くらい曖昧な目標設定だと思う。少し安いラベルレスのペットボトルに「この節約でいつか大富豪になる」と書いてあったらそんなわけないだろと思えるのに、それが「サステナブル」だったらまあそうなんだとか思えてしまう。持続可能であるかどうかは別として、目指す気持ちはある。
何もかも持続しないとは思うけど水を買います水がいるから
東京オリンピックの開会式も、正直、かなりバレていたと思います。
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