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横尾忠則展と黒沢清「回路」の相似性
「一番好きな映画、何?」
って言われても、答えられないですよね。
今この瞬間の自分自信をそこまで信用できないというか。
生きれば生きるほど、どれだけ自分が自分のことを全く分かっていなくて、大半に目をつぶったまま生存しているのかという事が、次第に分かってきます。なんだかそういう仕組みらしい。明確に意識コントロール下の領域は、「ディズニーランド・シー」を合わせた面積の巨大ブックオフに掘っ立てられた4畳半のバイトの休憩室くらいのものだろう。そうなると、好きな映画は?と言われてもこの4畳半であるところの私がブックオフ全体の総意を代弁できるわけがございません。
私が今までに行った、最も大きなブックオフの床には、「バブ」の袋が落ちていました。
映画の趣味って分からない。特に自分の映画の趣味ってなんだか、キモいなと思っています。理由は、黒沢清の「回路」を4〜5回くらい見ているからです。
「回路」は相当変な映画で、一応、ホラー・心霊現象というエンタメ性の強いモチーフを取り扱ってはいるものの、怖さの質もストーリー展開も、構造も常軌を逸している。そもそも主演が加藤晴彦と小雪っていうところがかなり怖い。不穏というか。始まる前から真っ当な方法で結ばれる訳がないだろうと予想される。
何故ならば、「越境」にはペナルティーが発生するからです。
越境のペナルティーとは、人類の人口が100億を目前とするくらいにまで爆増した結果、複雑な生態系の元に住み分けをする環境を構築してるので、ある一定のラインを超えるほど大きく違う種族との恋愛を成就させようとすると、何かしら代償を捧げなければならない。それが、あたかも呪いが降りかかったように見えるほど、不吉なエネルギーが降りかかる現象のことです。
果たして、そんなことがあるのかと思う人は今現在、大きな物議をかもし続けている例のあの結婚問題のことを考えてみて欲しいです。あのようなことになります。「呪い」というと、霊的なものに全ての原因を結びつけるオカルトちっくな考え方に見えたりもしますが、全くそのようなこともなく、例の皇室周りの問題も「越境」という性質の行為が周囲の人間(というか、この場合は国全体にまで問題が拡大してしまっておりますけれども)の気持ちを脅かすというか、不安な気持ちにさせるので結果としてバッシングや物理的な損など、もう呪いだろうというくらいの最悪の総体に巻き込まれているということです。
種族全体で決めた住み分けのラインを超える、越えようとする行為はそれくらい人々の心をかき乱す強い効能がある。それは昔からそうなんですが、今は越境している人同士も出会いやすくなったし情報も拡散しやすくなっているので、ペナルティーも激増しているのでしょう。
このような越境の問題を前提として、お互いを意識し合う役者が「小雪」と「加藤晴彦」って。すごいよ。そのセレクト。越境にも程があるって…もうね、役者が二人並んでいるだけなんだけど、既にすごいことになってしまっているというか。もう既に『怨』がチラ見えしているというか、どうにもならん、死ぬしかねえんだろうな…って印象が克明に伝わってきてしまう。すごいよね。このように、「回路」という映画は怖さを伝える手段が創造的過ぎている。そのせいかホラーファンからの評価が高いそうです。
「越境」の件もそうですが、この映画がすごいのは怖さを突き詰めているのに理屈っぽいという点です。一般的にホラー映画は怖さの根拠が
★得体が知れない、ルールが分からない、人類は理解しきれない★
(↑両端を黒い星で囲うだけで見慣れない、得体の知れないルールが発生してちょっとこわい)
というところにあることが多いです。だから
「怨霊に霊界に帰ってもらうための儀式を発見したのでやったけど、ルールが違って通用しなかった結果みんな死んでしまった、こわい、ヤバい」
みたいな展開がよく見られたりします。一方で、「回路」はむしろ霊的な存在の理屈を全部解説してしまっているようなところがあるんですよね。
例えば「越境」の件も、順を追って見ていけば多くの人の心の安定を脅かすような行為を取ると、代償や犠牲を支払わないと周囲の人々の心が収まらなくなってる、そういう感情のエネルギーの流れが簡略化されて、「越境」が発生した瞬間に「ゾワッ」とした空気感が立ち上がる、というか。
ここで恐ろしいのは、もちろん「人の心を逆撫でするような行為そのもの」ではなくて、「人々の心をかき乱し、ペナルティーが発生する行為が、何を根拠にどういう理屈でタブーとされるのか意味不明」っていうところです。それが分からないから、なんとか鎮めるために霊的なパワーに頼るしか無くなって呪術師などが祈りを捧げていたのでしょうが。
エネルギーの流れが簡略化されるっていうのは、例えばお金を貰った段階で、既にお金を使った時に得られる贅沢や喜びや満足と同じ程度の心のエネルギーが発生したりだとか、サザエさんを見ていると(月曜日の出社が嫌で)もう既に月曜日の朝の鬱のような感じが発生してくる、そういう現象と同じような感じです。
心とか感情の流れには物理的な制約がないので結構すぐ簡略化されます。そうして、なんらかの社会的抑圧によって負の感情が発生して、それが繰り返され過ぎた結果、簡略化された負のエネルギーの流れが混線状態になってどうにもコントロールしきれなくなる。結果、「鎮りください」と貢物(代償)を捧げて祈祷するとかしか無くなるのかなって感じです。病気が進行し過ぎて治療できない領域になってしまったので、もう温泉に浸かるとかしかない…みたいな(そうか?)
やはり、簡略化されるほどの負の感情はなんらかの社会的要因によって抑圧された結果発生していることが多いので、そういったエネルギーの最前線にはあまり「言葉」が与えられていないことが多いです。結果、やろうと思えばいつまでも無視できてしまう。でも、シカトし過ぎるとスプラッシュマウンテンみたいに「怨」が吹き出しちゃうんだよっていうのが、恐らくですが、黒沢清「回路」という映画で明かされている怖さの理屈なのです。1990年代の日本は、高度経済成長期、バブルによる絶頂期を経て徹底的に霊的存在や省略された負の感情への対策を怠っていたので、霊界が一般社会に目に見える形で溢れ出してしまうというところで映画は終わりを迎えます。
でも、分かったところでどうする事もできないし、理屈が分かったところで、より一層怖さのボルテージは上昇しますよね。こんな映画、他にないからついつい見てしまうのでした。
【一方、横尾忠則は満面の笑みで…】
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