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「天才」って、何

 私は暇さえあればNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観ているんだけど、あるとき突然

この番組って毎回、ものすごく熱意のある頑張り屋さんがものすごく熱心に頑張っているだけで本当にワンパターンだな

と気がついてしまった。ワンパターンだからつまらないのではなくて、ワンパターンなのにぜんぜん見飽きない魅力がある。この魅力を説明するために一つ言えることは、


例外なく、全員ものすごく熱心に頑張っている。


当たり前なんだよ!

 でも、ものすごく熱心に頑張る行為って、場をわきまえないとKY行為みたいに扱われて後ろ指を刺されたりするし、「アイツ~、なんか、がんばっちゃってるよ」って感じの薄ら笑いをされることも珍しくないから、そうそう簡単にできることではないと思う。

 プロフェッショナルはNHKだから「そーいうもの」としてバカにされずに済んでいるけど、これが民放だったら「好きなことにのめり込み過ぎのマイペースさん」とかそういう紹介のされ方をしてしまうかもしれない。

人が一生懸命にがんばっていて、そんなに面白いのかよ。



面白い。




 事実、面白いんである。っていうか、面白くなってしまう。だって必死だから。イオンモールのセリア前を、大人が全力で走っていたら面白いだろう。命の危険が迫っているわけでもないのに本気でダッシュしている大人を見ると、自分たちが「通行人」の小芝居をやっていることにうすうす気がついてしまうから。子供は走りたくなったら走ってもいいのに、大人は常に小芝居で歩くしかないのは変な話だ。
 本当に滑稽なのは、「通行人でござい」という顔をして白昼堂々「通行」の感じを出しているこちらの側なのに、全力で走っている大人の方が、哀れでみっともないように感じる。社会の中に包まれて生きるとはそう言う側面がある。だから周囲の感想を度外視して集団の中本気で頑張るのって、けっこう難しい。覚悟の背景となるような動機が本人の中に存在してないとなかなかその渦中には飛び込めない。

 この「面白くなってしまう事態を度外視できるかどうか」が人生の渦中で物事に対して熱心でいられるかどうかの境目だと思う。小・中学校で教わるようなことを逐一真に受けていると、この「自分が面白くなってしまう事態を度外視する才能」がゴリゴリ削り取られて少しずつ人格が平均化されていく。

 どうして集団の中でがんばってしまうと「がんばっちゃってる」ということにされるのか。合意形成の水面下でうごめいている思惑は、恐怖と防衛機制(防衛本能)であるように思う。

 「おもしろいもの」と「怖いもの」は紙一重というか、連続している。連続しているといってもそれは、常に均一な変化を示すグラデーションではなくて、どこかに支点を持って傾きを示すシーソーの両端のような形での連続である。それはつまり、ある部分で緊張関係を成立させている支点を踏み越えてしまうと、恐ろしさとして現れ日常に対する信頼感を脅かすものになり得るということだ。

 イオンモールをダッシュしている人が、ある程度の小走りだったら面白いだろうし、もうちょっと本気の小走りでもまだ面白い。駅伝くらいの走り方までならギリギリ面白い。それを超えて50メートル走者みたいな走り方になったら、「怖い」。目撃した人は、まずその走りを合理化できる理由がないか探すだろう。何かに追われているのか、ニュースで緊急の警報が発令されたのか、尋常ではないタイムセールでも開催しているのか。
 どこにも理由が見当たらなかった時、信頼していた日常のルールは壊れて、むき出しの、何が起こるか全く予測がつかない命の一回性に突如晒される。

 「怖い」と言うと、なんだか『呪怨』とか『犬神家の一族』みたいな形式として分かりやすいホラーを思い浮かべてしまうけど、ここではもっとこう、止まっているエレベーターを徒歩で降りている時の体がゾワゾワする不気味さに近いような感覚を指している。

 なんだか大変なことが起こって、自分の信じている世界が安心が別のものに変質してしまいそうな不快さ、見たくなさ。それは、例えば社会秩序で包括しきれなかった皺寄せを押し付けられた人物が抱える生存の断面が突然露呈した時にも生じたりする。女、子供、動物、障害者、人形、ピエロ、病人。そういうものが、「怖さ」の断面を突然見せてきそうな説得力を時に放つ。
 要するに、自分たちが意図的に普段見なかったことににしてやり過ごしている領域を見せられそうになるとすごく怖い。だからホラージャンルのフィクションでも分かりそうで分からない法則が常軌を逸した語り口で語られることが多い。

 一方で、おもしろいものは、ゾワゾワする怖さ、得体の知れなさのもっとずっと手前にある。自分の存在が脅かされない程度に得体の知れないは、怖さから安全な距離が確保されていて、そこから日常感覚の裂け目(ある基準から見た時の過剰さ)が現れるとおもしろい。あるいは怖さを通り越して裂け目の向こう側から「普段日常感覚と信じているもの」を覗き込んでいる時もおもしろい。こちらのおもしろさの方が過激で、しかし価値観の転倒の早い現代には適しているかもしれない。いずれにせよ、得体の知れない恐ろしさを忌避する態度から嘲笑は繰り出される。


 嘲笑とは得体の知れない恐ろしいものを安全圏で笑えるものに引き寄せようと言う防衛反応である。

だから、嘲笑をされている時、大抵なにかしらの図星を付いてしまっている。

それは非常に率直な図星だ。

・人間は死ぬ
・自分の人生を生きられるのは自分だけ
・終わったら、オワリ
・誰も代わりにやってくれないし、本当のところで自分を助けられるのは自分だけ
・自分が本当に幸せになれることは自分にしか分からない
・自分が本気やったことだけしか、本気で味わうことはできない
・他人は他人でしかなく、所有をすることはできない。所有されることもできない
・生きるということは全てがバレるということ
・儀礼としてバレてないふりをお互いにし合っているが、それとは別に「心」がある

本気の人が付いてしまう「図星」一覧

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