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バカにし枕草子Ⅱ
バカにしているもの
バス停
人間という生きもののはかなさ、むなしさを最大限くだらない形で突きつけられる無念の場がこれである。バス停に向かうとき、遠くから先にバスを待って立ちぼうけている人がいるのを確認すると、安堵をするとともにあらためて「バスを待つ」という行為における、人間側の痛ましいまでの立場の弱さを痛感させられる。屈辱の域である。今までバス停に立っていて、向かってくるバスが停車をしなかったことは一度もなかったが、それでも全てはバス側の胸先三寸で決定づけられるという事実の深刻さがいつまで経ってもつきまとう。今度ばかりはスルーされてしまうかもしれない。されたところで、こちら側に一石を投じる余地は決してない。独裁者に司法をジャックされた末法の民主主義のありようはバス停じみているのかもしれない。そんなことを思う。
砂場
”場”じゃないんだよ、とまず言いたい。世の中には水場、岩場、足場、市場など、さまざまな”場”があるけれど、砂場以外は”場”の一言で利用者を納得させようという意図は、別に放っていない。砂場だけがなんだか特別にもったいぶって
「場ですから……」
という感じを出してきている。
場だから一体、なんなのか。我々が知りたいのはその先である。砂場の側は利用者にどんな夢を見せて、いかなるエンターテイメント性を提供したいと考えているのか。その辺りの志がまるでなく、施設としての矜持を放棄した丸投げの態度を恥ずかしげもなく開陳している。それだけでもかなりどうかと思うのに、輪をかけて”砂”とか平然と言い放つ。前半部分の思い上がった態度も決して見逃すことができない。厚顔無恥にも程がある。砂場はボールプールのことを見習った方がいい。ボールプールのことは、いっそのこと「逆砂場」と呼んでしまっても差し支えがないのかもしれない。ボールプールは、全体を構成しているボールの一つ一つが、それだけでも遊具として成立するだけの実力を有しているのに、さらにはフィールド全体にも「プール」という大人気の要素を付け加えることでエンターテイメント施設としての圧倒的な総合力を誇っている。それに比べて「砂場」って。
盛り上がっていない場面のことを「お通夜状態」と表現するネットスラングがある。断言するが、お通夜よりも砂場の方が大体盛り上がってない。盛り上がりようがないことに、人類は早く気がついた方がいい。利用者が静かな熱を帯びているということは稀にある。しかしそれだって、実力の内容はそれをやっている人間の側にあるのであって、砂場の功績では決してないということを砂場にはわかっておいてほしい。
この世には”オワコン”という世間的に枯れたと判断されたコンテンツに差し向けられる侮蔑的な俗語があるが、砂場にはこのような言葉を使うことすらためらわれる。なぜなら、砂場が始まったことなんてかつて一度もあり得なかったし、今度もあり得ないから。
公園に埋まっている半分のタイヤ
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