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土曜日はクロスワードを先に解く
中三のときの国語の先生はよく泣いた。
それは目の端に昔の事情を滲ませて、図らずも情緒が裂けてしまったことを「今ちょっと、ホントにすいません」となりながら、それでも今ここで泣く姿勢を崩さない感情と政治のバランサーが機能している大人の泣き方ではなくて、本当は頸動脈の裂傷から血がびゃあびゃあ吹き出した方がいいんだけどそうもいかないから代わりに泣いてるっていう感じの「泣き」だった。それは過激なのに妥協すら含んでいるもの凄い泣きだった。
なんでそんなことが授業中に起きているのか。大人になって考えてみるとわかる。誰もなにも言えなかったのだ。まず怖い。無言で流血の代わりに突きつけられる涙は色がない分感情が一点に収束しないまま全身を逆撫でされ続ける険しさがある。話しかけようにも手始めの一歩がどこにもない。コメントのしようがない。そこで生じるコメントのなさにはかなり多様な色彩があって、黙り方の分だけ充実した人間性が実際にある。あるけど、著しく裂けている人にとってはそういうのはどれも等しくたった一つの無常な沈黙としてしか届かない。そうやって二元的に解釈された沈黙は断裂を否定するものとしてしか存在しない。
この白石を一つ置いたところで、盤面のオセロは一斉にひっくり返るのか。そうではないのか。
本人の中では常にそういう話になっている。だから余計に断裂の痛みがよりいっそう前景化してくるというか。こういった断裂オセロは世の中でもしばしば見るけど、先生は学校の先生をやっているくらいだから裂け目以外の部分では社会性が非常に高くて、先生の中でも非常に先生的な先生をやっている人で、だからこそ誰しもが「今、この、オセロの盤面を、ひっくり返したら、大変な、この世の、終わりが、来る」と感じて、群れ全体がその方面に臨場を帯びて全面的に耐えるしかなくなる。全面的に耐えるしかないというのは社会全般の恒常性がそうだから、感情の前に構造的な忍耐が、側から見たら常軌を逸した、とうていまともではないよっぽどの、人間性の非人間的な側面としての忍耐が枠組みとして生じていて、そうなっているとき先生の心はダブルで世間から追放されている。
わたしはその凄い泣きを固唾を飲んで見守る時間がかなり好きだった。真剣だから。自分はおかしいかもしれない。みんなはおかしいかもしれない。先生はおかしいのかもしれない。あるいはひとつもおかしくないのかもしれない。じゃあこの世の何もかも全てを根本的に全面的に絶対的に圧倒的に前後不覚になるほどに昼を超えて夜も超えて光を超えて喉が打ち震える言葉の鳴りの前兆すら超えてもうなにもかも許そうよとかいう気持ちになって、そこまで行くとクラスの全体も輝いて、そういう光みたいな臨場感に包まれているような気がしていた。たまに学校に持ち込んだCDプレーヤに繋いだイヤホンからマイケル・ジャクソンの『beat It』を片耳だけ小音量で流した。そうやって自分なりに「光」を裏付けした。自分としてはそれで気持ちの中の理屈、の部分を補強することでその場の盤面を「耐え」ではないものに変換したつもりだった。とにかくそうなってしまうくらい先生の泣きにはパワーを感じたので、見るたびにどんどん夢なのか愛なのかわからない気持ちが大きくなっていった。そんなことは到底誰にも言えなかった。先生の泣きを小馬鹿にしていないのがバレないようにしないといけない。ずっと誤魔化していた。本当すぎて誰にも言えない。私は感じた。先生が泣いていないときのこの世は15:38の通販番組みたいだな、ということも思った。
先生は白髪を栗色に染めたショートヘアで、熱心で怖いピアノの先生にいそうな雰囲気だった。規律に関してものすごく厳しい魔女っていう感じもした。私情より職業倫理観を上位に置いている人ならではの情緒のアンコントローラブルさがあるせいで好かれすぎることも嫌われすぎることもなく、一定の業務的な敬意が払われ続けるタイプというか。いつもカルピスの瓶みたいな形のボタニカル系のワンピースを着ていた。ワンピースは全部で3種類しかなくて、そのうち2種類だけを交互に着ている時期もあった。先生は、一旦そういう感じになるとそれはもう血飛沫みたいに泣いたけど毎回ではなかった。通っていた中学では生徒が出席簿順に原稿用紙二枚分くらいの手短な作文を読み上げる風習があった。先生は、そこで犬の話が出るたびにすっごい泣いた。犬で先生が泣くのは毎度のことだから、読む側も「泣かせ」をやりに行っている部分があったと思う。だって中学生は毎日退屈だから。大人が泣いたら、がっこうも少しくらいおもしろいではないか。私は水面下で先生の泣きの場面を(もしかしたら先生自体のことを)どんどん好きになってどうしたらいいのかわからなくなっていたが、そういう冷ややかでシビアな空気に対しても「ある程度理解できる部分がある」と思った。誰も大きくは反応しない。授業中の短い横一文字に閉じた口が、もう少し長い横一文字になるくらいで体裁は保つ。とはいってもやっぱりおもしろが根本にある。子供の残忍さがシステム的にあらかじめ仕組まれているという共犯構造が「泣き」との対比で際立ってくる恐怖があった。それはあくまでエンターテイメント的な余地を残した、コカ・コーラの風味のどこかに「これってコカイン入ってるんじゃない?」的な予感を鳴らす程度のもので。そういうエンターテイメント性と恐怖がピノキオが連れて行かれたヤベー国みたいにどろっと融合してしまったところで展開されている楽しさを味わうのに中学生の心より向いているものはない。だからそういう残忍さも今腸から滲んできたもののように克明に思い出せる。
「泣き」の理由は誰も聞かなかった。それは気遣いもあったかもしれないけど「触れない方が面白いだろう」という中学生の冷酷さからくる総意だったと思う。残忍だから全体がむやみに澄んだ目で先生を見ている。自分の目もそうなんだろうなと思ったのでますます先生への親意がバレないようにしなければいけないと思った。多方面への説明のできなさが折り重なってうっすらグレーな気持ちになった。保健体育の授業で外国のタバコのパッケージに印刷されたボロボロになった肺の写真を見せられたときには、スライド上で間接的に自分が晒されているような気持ちになった。そうやって半年経って、先生はついに語り始めた。それはありふれた話だった。
先生の犬は逃げたらしい。
名前はラッキーとかそういう感じだったので、名前と出来事のコントラストが悲しくなってしまう感じもありふれていると思って哀しかった。泣きは凄くても決してエピソードが特別な一回性を帯びたものにはならない。そういう斟酌はこの世にない。「価値」の全てが希少性に紐づいているという思い込みがなんでいま無神経に一旦よぎるのか。
犬は逃げた。大型の台風が接近して激しい雷雨の日のことだった。犬は落雷に驚いて猛然と逃げたらしい。土砂崩れや水害が発生しているその只中に犬は逃げた。先生は、犬が早くて何が起こったのか全くわからなかったそうだ。当然だと思う。喪失の途方もない大きさとできごとのあっけなさ、なんでもなさが一つも噛み合っていない。そういう噛み合わなさ、世界のあらかじめ壊れている感じ、神様っていらしゃらないのかなという感じは当事者の連続的な現実認識を粉々に粉砕する。
先生は、半狂乱になり探したそうだ。その日から毎日探した。先生が住んでいる地域の保健所は、当時は毎週土曜日に犬を殺処分していたから、先生は、週末には保健所に足を運んだ。犬はいなかった。犬はいなかった犬はいなかった犬はいなかった犬はいなかった犬はいなかった。先生はいまも犬を探していると言った。毎週土曜は購読している新聞に一面大きなクロスワードパズルが乗るので熱い紅茶を淹れて、半日かけてじっくりパズルを解いて、解き終わったら保健所に向かい、殺される犬を順番に見る。それが習慣になっているのだという。教室は静まり返った。半分くらいは澄んだ目がグニャグニャになってパタパタ泣いた。私は、いや、ちょっとまてよと思った。おかしいだろ、と思った。
クロスワードパズルが先なのかよ。
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