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「マジ」の解釈
ネットで一般的な家計簿のグラフなんかを見ると、よく「生命保険」っていう項目があるけど、そんなに一般化するほど死の保険(生命保険という言い方で死を誤魔化している雰囲気がある)っているのかなと思う。死んだら終わりなのに。
保険を、生命に?
死んだらお金が貰えるとはいえ、死んだ場合死んでるからいらないんじゃないだろうか。「残された家族が……」と言うけど、極端なことを言えば残された家族も生きてる場合生きているし、死んでる場合は死んでいるのだから問題ないんではないだろうか(私立の高校に行けなくなるとかはあるかもしれないが)。大抵の人間には場の状況に応じてやっていくしかないという心構えと、それなりの状況をそれなりにやっていくだけの適応力がある。
幽霊の怖さについて、同じ考え方を用いて考えてみる。幽霊は怖いが、それは「出そう(出るかもしれないし、出ないかもしれない)」だから怖いという性質の怖さである。ケースごとに考えると、出てない場合は出ていないから怖くないわけだし、出た場合はそれはそれでもう既に「出ちゃっている」のだから怖くない。怖くないというか、それは実際に出た幽霊のビジュアルによってケースバイケースだから、ビジュアル的にすごく怖い場合もあるかもしれない。しかしそれはディティールが説明できる具体的な怖さであって、「出そう」の曖昧で対象がはっきりしない不明瞭な怖さとは一線を画している。
幽霊が怖いのは「出そう」だから怖いだけ。生命保険代を毎月支払うのも「死ぬかも」しれないから不安なだけ。「出そう」「死ぬかも」への対策をすることは、「実際に出た」「実際に死んだ」場合の対策をするのとはかなり違う。かつて量子力学の世界では「物体の性質は観測された瞬間に決定し、観測されていない状況下ではすべての可能性を含んだままの状態で確率が分布している」というコペンハーゲン解釈をめぐってかなりのドン引きと紛糾が発生していたが、このような解釈を普段から地で行っているのが人間なんじゃないだろうかと思えてくる。
「ペット飼いたいなー」
と言っている人の多くは、実際にペットを飼いたいのではなくて「将来ペットを飼っているかもしれない私 / そうではない現在の延長線上を生きる私」が含みあった量子力学的自分を満喫しているだけっていうことが、ジワジワ分かってきた。
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