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おもしろさと攻撃性
先日
「面白さに攻撃性は必要だと思いますか?」
と聞かれて、かなり興味深い問いだなと思ったので自分なりに考えてみました。
結論から言うと、面白さに必要なのは攻撃性ではないと思います。むしろ、攻撃性はノイズというか邪魔な要素にしかならないんではないでしょうか。
ここで今取り扱う「面白さ」の範囲について定義を示しておきたいと思います。やや矮小化されてしまう気はしますが、ここでは話をわかりやすくするためにひとまず「面白さ=真実バレがもたらす情緒」とします。
「真実バレ」とは、常套句のようなもの、何も考えずに口をついて出るようなベタな言い回しや定型句にまとわりつく既得権益的に与えられる評価をはぎ取ってしまう態度、またそれが現れた結果のことを指します。
既得権益的に与えられた評価とはなんでしょうか。それはたとえばかつてインターネット上でよく用いられた
「リア充爆発しろ」
という言い回しなんかがそうです。これを最初に言った人はその心中にどうにも我慢ならない憤り、今にも全身が張り裂けてしまいそうなほどに逼迫した(みっともなく滑稽な)感覚があって、恥も外聞もなく全感情をそのまま吐露してしまう馬鹿馬鹿しい説得力に裏打ちされた"実力"(言葉に身体的な実感を吹き込むだけのエネルギー)を持っていたと思うのですが、定型句として広く行き渡ると同時に、ぜんぜん爆発して欲しいとか思ってない小芝居的な憎しみや憤りしかない人物がとりあえず言っておけばなんか言った感じが出せる便利なワードとして多用しすぎた結果、言葉の力が死滅して今ではほとんど用いられなくなりました。
この場合はつまらない人ばかりが選択的にこの言い回しを用いたので力が徹底的に死滅して死語になったのですが、多くの定型句は面白くもなく、つまらなくもない、いたって常識的なものとして用いられるので「社会的な感じ」「嘘でも本当でもない感じ」「常識的な感じ」を維持するパワーを保つことになります。
ある定型的な言い回しは、何度も使われるうちにそこに宿っているパワーと、社会的に与えられる評価の間にズレが生じてきます。
最近実力と評価の間でズレが生じているワードといえば、サウナのファンの中で用いられ一般化した「ととのう」という言い回しなんかそうです。これは当初は先鋭的な人が「(なにかもう薬物をやったかのうように)きまった、実際にどうかは別にして気持ちの上ではエンドルフィン、アドレナリン、ドーパミンなんかの物質が脳内にドバドバ分泌されているような雰囲気がある」という公衆の面前ではあんまり声を大にして言いづらい方向性の感覚をある程度ポップに表現する語として開発したものと思われます。(タナカカツキ『サ道』が初出とされる)
さらに「ととのう」という言い回しを特徴づけていた要素を考えてみます。それは犯罪ではないものの脳内の状態が薬物に近いような決まり方をしているという微妙な後ろめたさを「ととのう」という健康的な方面に邁進しているかのようなジャーゴン(特定の業界や専門家グループに固有の用語、表現、頭字語のこと)に置き換えてしまった脱法感覚です。その上、やっていることが健康ランドに行って健康になっている(と主張している)だけなのだから気持ちの面では後ろめたいのに表面的にみたら本当に何の問題もないという「非合法の雰囲気をわざわざやりにいっているコンセプト的な面白さ」があったんじゃないかとおもいます。ところが、サウナブームが加熱し趣味の分野として広がりを見せるとともに当初想定されていたニュアンスは打ち消され、本当に健康になるという意味で「ととのう」もしくは「整う」という言葉が用いられるようになりました。こうなってくると、別に何も整って(健康になって)いないのに、やりにいっている非合法感のなごりのせいで「自分は健康に邁進する行為を行なっている」と誤解というか、健康になるかどうかは体調や程度の問題もあるので何とも言えないのですが、少なくとも過剰な入浴には危険もあるという事実を見落としたまま用いられるという珍奇な状況が成立してしまいました。
ここでズレを有した状況に対して「なにも整ってないだろ!」と言及することで「真実バレ」(サウナのやりすぎは体に良くないバレ)を引き起こすことが可能です。じゃあ、一体これは攻撃なのか?
ということを考えると、私は決してそうではないと思います。なぜならばここで
【問い】
「過剰に求道的な態度でサウナに入っている人は、本当に健康になっているのだろうか?」
という問いを立てるのに必要なのは、普通に社会生活を送っていく上では過剰すぎる理不尽なまでの厳密さ、公平さであって、決して「攻撃性」では無いからです。肝心なのは問いが現実に侵入していく際の入射角における精度、厳密さであって、怒りではありません。確かに、怒りや私怨があったりすると観察力や分析力が上昇して結果鋭い問いを立てることが可能になるケースもあるので、そういう意味では攻撃性の基盤になるような感覚が面白さを引き出す要因になることがあります。しかし、それが直接的に対象への攻撃に繋がってしまうと自分の経験上あんまり面白くはなりません。なぜなら攻撃というアクションで喚起されるのは対象への侵入、同一化、ベクトルが逆になった共感であって、それは差異を追求する分析的な視線を曇らせてしまうからです。だから、面白いことを言っている人は常に感情の面では豊かだったり、あるいは過剰だったりするのに、対象を分析するときには私怨を一旦取り除いて公平な態度で望むような、変な真面目さ、空気を読まない公平さのようなものがある場合が多いんじゃないかと私は考えています。このズレの程度に精密、厳密であろうとする態度を「ジャッジメント精神性」とここでは名付けることにします。
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