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「極悪人」は法律を守る
【「いい人」の意味を誰も知らない】
仕方がなく「いい人ですね」と口にすることがある。この「いい人」というたったの一言は、それ自体とても単純な語彙の組み合わせの言い回しなのに、他の言葉では到底置き換えられないほどに複雑で、難解で、ややこしい社会合意が含まれている。本当は気がついている。「いい人」と口に出す度に、ごくわずかな虚無感や徒労感に襲われている自分に。
そもそもの徒労感の原因はなんだろう。根本的に言ってしまえば、本当のところ人間という存在は、ミラーボールのように光を乱反射させながら変化をし続ける複雑な異次元の多面体であって、「いい人」というごく限定的な表現の枠内に収まりきるような人物像なんてものはあり得ない。そういうことに、3歳くらいになった段階で大体の人が感覚的には気がついているのではないか。だからありもしない幻想を、あるかのように渾身丁寧に振る舞い捏造する集団演劇に、どこかうっすら疲労し続けている。そうだとしても、いや、そういった振る舞いによる社会的承認の仕組みが理解できてからやっと「いい人」という概念との長い付き合いが始まるとも言える。「いい人」「いい人」「あの人いい人」。意味がわからなくても何でもとにかく読経のように繰り返す。そうやって信じ込もうとする。あなたはいい人で、私も、あるいは「いい人」であると。
「いい人」とは、端的に言えば一つの社会合意であって、具体的には「あなたがいい人として振る舞う限り、私もいい人として振舞いますよ」という節度をお互い言外に保証し合う外交的な契約関係と言える。契約なのだから一方的に破棄されることもあり得る。詐欺師が詐欺行為を働いている本丸は書類上にあるのではなくて、言外に交わされる社会的契約関係の中にこそあると言えるだろう。法律を根拠に書面上の契約が結ばれる時に、言外の契約関係を悪用して利益を手中に収める行為が詐欺の一般的な手口だ。例えば「オレオレ詐欺」もまた、「親族はお互いに幇助する」という言外の契約関係を悪用している。
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