結局ソーランやるしかない
以前こちらの記事で『ソーラン』についてお話ししたことがあります。
『ソーラン』とは、北海道民用のソーラン節のことですが、
実際の北海道民謡ソーラン節以外にも何か『ソーラン』としか言いようのないバイブスが満ち溢れている。
いえ、「満ち溢れる」では語弊があります。
この世の、ある特定の領域になぜか『ソーラン』としか言いようがない、今この瞬間における生存をただ肯定するだけの音頭が密集している。
以前の記事では、ハロー!プロジェクトの楽曲において、なぜか『ソーラン』が極めて高い頻度で散見される(これを「露骨ソーラン」と呼んでいます)ことについて触れてのですが、このように
「今・この瞬間において自らを鼓舞するしかない心情」やそれを表現した歌や様々な表現を「ソーラン」と私は(勝手に)呼称している次第であります。
つまり『ソーラン』とは私が勝手に名付けた「何かそういうジャンルの表現全般を指すワード」、としか言いようがありません。いささか強引な造語に感じられるかもしれませんが、こちらとしても苦肉の策というか。
好き好んでこちらから「ソーラン」を発見しに行ったというよりも、何だか世の中には一定の割合でソーラン的なるものが発生し、人の営みの範疇で生きている限りはソーランに出くわしてしまうというところがあります。したがって、こちらとして不可抗力としてのソーラン受容、止むに止まれず気がついたらソーランという感じなのであります。
以前の記事でも申し上げたのですが、ソーランって何なのか、分からなくてもいいかなと思っていたのですが、突然全てが分かってしまいました。
【何なのか】
ソーランが何かについて考える為に対立概念を立てる事にします。
ソーランの対立概念は「エンパワメント」と言えるでしょう。最近よく聞かれる言葉ですね。
『エンパワメント』とは、日本語にすると能力開花であるとか、権限の付与などと翻訳されるそうです。
一般的には、個人や集団が自らの生活への統御感を獲得し、組織的、社会的、構造に外郭的な影響を与えるようになることであるとされます。これは先住民族運動や女性解放運動、あるいは市民運動などに用いられてきました。
少し込み入った概念ですが、ここでは
「本来の力を発揮する為の他者から承認を与えるメッセージ性」
とします。
そもそも、なぜエンパワメントという概念が必要なのかといえば、それはこの世がままならないからです。ままならないとは、つまり権力者の会議の場で重要な事だと認められていない全てのものは過小評価され矮小化され常に外側から価値を毀損され続けるということです。
ソーラン節発生の発端となったニシン漁も、あるいはそうでしょう。肉体労働です。死の危険があります。変えが効く仕事だと、命を金に換えるの単純労働だと蔑まれることもあるでしょう。
これを地上で鼓舞するのがエンパワメント行為と言えます。ニシン漁に向かう為の意欲を削がない為の助力です。
ところが、いざニシン漁の現場では、どうか。
「ニシン漁はクールな仕事だ」
「我々は誇りと尊厳を持ってニシン漁に取り掛かっている」
「ニシン漁師にはこんなにおしゃれな人もいるし、力がない人でもパワースーツをつけてニシン漁に参加できる」
…なるほど、大変結構な話です。が
今は
それどころ
ではない
繰り返しますが、地上ではエンパワメントが非常に大切なんです。
船を漕ぎだすまでの瞬間、失望と失意の中でオールを取りこぼさないように。
ただ、今ちょっと、そういう感じではないから。
ニシンの群れ、来てるから。
となった時に必要な魂の鼓舞、それが
イヤァ〜〜〜〜〜〜〜〜
ヘイヘイソーランソーラン
(ハイ!ハイ!)
これでしょうが!
一目瞭然だろうが。
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