一般化された顔への執着に決定的に欠けているもの
「顔面偏差値」とか「なりたい顔ランキング」とかいう言葉が、平然と雑誌の紙面に踊っているのを見るにつけ肝が冷える。この場合の肝が冷えるは比喩でなく、実際にみぞおちの奥の方に冷たい鉛が詰まったような感じ、そういう感じがある。「顔がいい」ってだからなんなのか。いつの間にこんなに偏執狂であることが一般的になったのか。
少し視点を変えてみると共感できるのかもしれない。「おもしろ偏差値」「なりたいおもしろランキング」。いや、やっぱり共感はできない。おもしろは要するに「差異」つまり既に流通しているものの見方を前提に提示された差異、異化効果への反応であって、そういった差異の受け渡しには微細な感情の機微がある。それは数値化し難いものであって標準偏差が存在し得ない。だからランキングという行為もあり得ない。
(漫才のグランプリなどは意図的に漫才の中にあるスポーツのような「競技性」を強く誇張した上で擬似的にオリンピックのような観点で審査をしている。興味深い試みだと思う)
「差異」
これは何事においても言えることで、人類は基本的に何か標準として置いたものと目の前の対象物との「差異」を評価している。ファッションにおいてはこれが特に顕著で、なんの変哲も無いシンプルな格好が時には「ノームコア」と言われて評価されたりもする。情報というものも要するに差異であって、黄色い建物が私の住んでいるマンションですといった場合、黄色く無い周囲の建物との差異が前提となってその情報は受け渡しされる。
そういった、根本的なところに立ち返って考えてみると、顔への執着には不可解点がある。それは、他者との差異化への意識が見られないという点だ。
なりたい顔 顔面偏差値
など、概念として集約された至上命題が設定され、そこに向かう。つまりある指向性を持った到達点に向けて多くの人の到達の度合いへの競争原理が働いている。それでいて唯一無二のものでありたいという願望もファッション誌の特集などから読み取ることができる。唯一無二である為にはそもそも他人との差別化をしなければならないが、競技的な地平でも評価をされたいというジレンマが言及されないままに存在している。つまりは、向かうべき目的が欠如したまま目的意識だけが強固にある。だから、そもそも何を目指せばいいのか、どうしたら、目的に到達できるかが判らずに集団でパニックを起こしているような状況に近いんではないのかと思うのだ。
これは先ほど例にもあげた漫才のコンテストにも言える事だが、漫才のコンテストは笑いという曖昧で複雑な行為を意図的に極度に競技的な性質に寄せていく文脈、敢えて露骨なまでにスポーティーに振る舞う「競技性のパロディー」のような印象が感じられるし、時としてそういった過激な競技性を凌ぐほどの得体の知れなさ不可解さが競技性を破壊してしまうところにドラマ性や主題が置かれているように見えることもある。
そういった意図的に整備、配置された競技性と比較して考えると、いわば「顔面至上主義」的価値観の競技性はスポーツライクに整備されている印象が全く無い。まるでオリンピック前夜の代理戦争としてのスポーツ、中世イングランドで敵将の首を蹴り飛ばして遊んだと言われるサッカーの起源のような野蛮さ、荒々しさにまみれている。(※諸説あり)
何かの分野で突き抜けるためには差異化が鉄則だ。しかしながら差異化に向かわないという価値観は一見異様であるが、考えてみると当たり前のことではあって、それは人類は差別化と集約化の両面織り合わせで繁栄、発展をしてるからだ。
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