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くまさんからの突然の正直
かにピラフ、死を待つ人の家にいる人は果たして待っているのか
ガンジーやマザー・テレサについて書かれた本を読んだりすると、ある部分ですごく無神経な人が、その性質によって別の側面では聖者としての功を奏しまくっているようにも思えてくる。例えば「死を待つ人の家」とか、ある部分でかなり無神経な人じゃないと絶対に思い付かない名前じゃないだろうか。
この無神経さが、私はなんだか嫌いになれない。なんで嫌いになれないのか長年把握できていなかったんだけど、最近似た感触のものをネット上で見てすこしわかった。それは、先日SNS上で話題になっていた
「障害者が作るクッキーが最高にやばい」
という投稿である。
これに寄せられた賛否については、趣旨と無関係だからここではひとまず無視して話を進めたい。ここに現れた情緒は、私が障害者手帳を持っているから感じられるある部分のゆとり(お役所認定された障害の当事者であることによって、社会的弱者に対する加害性の不在を過度にアピールしなければならない苦役を免除されていることから来る精神的な余白)に端を発しているのかもしれない。
それを踏まえた上でも無神経でダメではあるんだけど、だからといって嫌いになれない。そういうニュアンスをここにも感じる。この、感じ。がんばったら、いくらでも嫌いになれそうだけど、そういう隙の多さも含めて嫌いになれない。かといって好きでもない。珍妙な。「死を待つ人の家」もそうだが、珍しいぬるま湯に片足を突っ込んでしまった感じがある。
なんで嫌いになれないのかというと、「正直」だからだと思う。
より細かく言うと「人から好かれようとしているわりに正直」という、現代社会を生きている人間があんまり出力しない同時性を発露しているからだと思う。
普通、人は善行をやってみせる局面に立たされたときには、必要以上にスキのない善人をがんばってやろうとしてしまう。世の中の人も善意を見せてくる人間のことなんて、そうすんなりとは信じないから、チェックの目線が厳しくなるし、応じて善人の善意PRもますます激しくなる。そのせいで、力の入ったパワータイプの善人がすごく多い。こういった善人を見ていると、仕方がないのかもしれないがつかれる。かといって最近は
「いい人になりたくて、いい人でありたくて、そうであろうとして一生懸命がんばっているんだけど、どうしても自分の都合ばかりを優先したり、楽な方に流されてしまって苦しんでいる。だけど、こういう苦しみを抱えて自分ばかり大切にしている自分こそ真の善人だと思う」
といった、もしこの発想がピタゴラスイッチだったら途中に亜空間ワープが3つくらいなければ成立しないだろうといったハチャメチャな善人スタンスの人もいて、これはこれでもちろんつかれる。だから、どこからともなく善意の風が吹いてくると、浴びる前にすごく警戒をしてしまう。どうにもならないが、哀しいことだと思う。
こんなふうに、評価が即座に資本としてカウントされる今の世で、ただそこにあって温泉みたいに湧き出している善意に触れるのはかなりの困難を極める。そんな中、「無神経な善意」に触れると、評価経済の市場と密接に癒着しすぎている日常の平衡感覚に痛烈な冷や水を浴びせられるというか。そうやって、クールダウンをした先で改めて"善意”というものをじっと見てみると、
ああ、人間の善意って別に、無条件でそこまでものすごくいいものでもないんだよな〜(かといって悪くもない)
という、リアルな実相が見えてきて、なんだかホッコリする部分があるというか。いいも悪いも「人間だなー」としか言えない感じというか。コーティングされていない「善意」って、わりと欲求のバリエーションの一つ(それは、群れの中で上手く生き残っていきたいという切実な欲求だ)でしかない側面もあるんだよな、とも思えて肩の力が抜けるっていうか。
善意は別に黄門様の紋所ではないんだから、差し出されたこちらも平身低頭をせず、クールにいたって構わないだろうと思えてくると言いますか。内容次第なんだよ。
大学生のときに、制服はすごくかわいいのに、人間関係は極限まで殺伐としているカフェでアルバイトをしていたことがある。
当然のようにワンオペはあるし、サボると同僚に密告をされる。辞めようとする人に対しては「お前だけ楽をするのか」などの脅迫的な説得が普通に行われている。今考えてみると、そういう殺伐の下味があったせいで制服のかわいさがいっそう引き立ってエンジョイできていたのかもしれない。異様に殺伐としている割には変にアルバイトの人が長続きをするという、奇妙な磁場があった。
くまさん、はそういう表層のエンジョイの背後に生じるストレスや不全感を私にぶつけることで解消しようとしていたんじゃないかと思う。
くまさん、とは私が適当につけたアダ名で、実際は都内の大学に通う2歳年下の女性だった。際立って特殊な考え方をする人物ではなかったものの、総合的に考えたらアルバイト先で最も私の言動に敵対的な人物だったんじゃないかと思う。
面倒な仕事を押し付けつつ「かわいそー」と言ってきたり、壊れた備品の責任を押し付けたりなど、くまさんは特にユニークではないが、実利的な側面で面倒なことをしてくる人だった。
私がホールのチーズケーキの角に傷をつけてしまったときも、くまさんはしつこく弁償するようにせまった。傷の部分を外せば問題がなさそうだが、こうなったときのくまさんは非常に執念深い。めんどうなので千円ちょっとのケーキの原価を財布から出して支払うと、くまさんは我が意を得たりといった顔で崩れたケーキを取り分けて、「私からです」と言いながら社員に配り回った。そうして配り終えて帰ってくると、
「水野さんの分はなくなっちゃったので、コレあげまーす」
と言って、サンリオのキャラクターが印刷された個包装のマシュマロを、ひとつくれた。
おお、この人はすごい。今まで会ってきた人の中でもレベルが違うとそのとき思った。くまさんの、そういう実利的な部分は、案外私は大丈夫だった。大丈夫というか、いちいちなにかを感じる方がめんどうなので、ただ寄せては返し、凪いだ場面もあるが、ときに激しく打ち寄せる荒波のように捉えた。
実利的な部分よりも、そういうことをしてくるのにも関わらず社交の部分では「すごく関係のいい友達」みたいな雰囲気で接し続けてくる対応がすごく嫌だった。くまさんからは「いつもありがとうございます。助かってます ^_^ ♪ 」といった内容のLINEが来る。そんなわけがないだろ。この外道は、いつだって私のことをバカにしているのである。くまさんは勤務中はちゃんと嫌な人なんだから、休憩室でも私の財布から千円抜き取るくらいの悪党であって欲しかった。変な善意の雰囲気は見せないでほしい。徹底を、してほしい。
そんな実利的かつスキのないくまさんが、思いもかけず本心をあらわにしてくれた瞬間がある。アルバイト先の人間関係がいよいよ壊滅的なフェーズに突入し、バイト全員が一斉に辞めた上、その後すぐに経営不振で潰れるという、呆気なくも当然の幕切れを見せてから三年ほど経過したころ。あの、くまさんから唐突に、一通のLINEが届いた。
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