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勝手にパンダ。初鰹。地球は別に青くない。
(文末付録:いっこく鬱活用法)
しばしば
育ちのいい人は「自己肯定感」が高いので、外見などを褒められても嫌味なく「ありがとうございます」と言える。庶民も「自己肯定感」を高めてこれを真似しよう。
みたいな意見が常識のように語られているのを見ることがある。
いいこと言ってるっぽい感じがあるけど、これって根本的な勘違いが発生している気がする。「上流階級」みたいなボヤっとしたイメージに無秩序な幻想を抱きすぎているというか。
自分が思うに、「育ちのいい人」とタイトルにある読み物は、全般的に風俗ルポ記事のような猥褻さと根拠のなさに満ちた魔窟ムードが漂っているのに、「育ちのいい」というワードの漠然とした紋所パワーだけで印象がロンダリングされ過ぎている。
なんでそう思うのかというと「上流階級」みたいな人が外見などを褒められてもスッと受け取る、というか「受け取ったっぽい雰囲気で受け流す」のは、そこで生じた褒めをそこまで自分個人のこと紐付けて捉えていないのが主な理由じゃないかと思うからだ。
例えば「A家の娘さんは美しくなられました」「A家の長男はたいへんご立派(※立派に具体的な定義はない)になられました」といったことを言われたら自動的に表情筋をこねる訓練を積んでいるだけというか。
こういった社交が発生しているとき、誰も本人(の魂とか自我に関連する部分)に帰属する話をしていないのは明白で、じゃあなんの話をしているのかというと「A家」という家柄のブランディング成功譚や連綿と続いてきたブランド自体の尊さについての話をしている。
「いい長女」「いい長男」のブリーディングに成功した素晴らしい家柄というブランドが盛んに褒められている。ダビスタというゲームでレースを走る出走馬が物語の主人公ではないように、ここで褒められている本人は話題の中心人物であるのに近代的枠組みの個人としては話題のフレームから阻害されている。出走馬はゲートが開いた以上は貶されようが褒められようがひたすら走るのみである。野生馬は絶滅したと言われている。地上を生きる全ての馬はヒトに家畜化された個体の子孫であって、生きる以上定められた道を走行する他ない。同様に、ここで褒められた長男や長女はブランドの構成要素としてしかその場には存在していない。こういう”繁栄”をグローバル化した現代の地球上で熱心にやっても、行き着く先は「モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン・マイバッハ・ロールスロイス・ベントレー・ロブション・ヒルトン・インターコンチネンタル・マリオット(LVMHMLBLHIM)」みたいな地平だと思う。すごくむなしい。
そういう意味では毛沢東のことを熱心に褒められた紅衛兵とか、坂本龍馬を褒められまくった維新の会所属議員とかのほうがよっぽど謙遜チャンス(自分ごととして満喫するチャンス)の持ちようがある。
例えば宇宙飛行士に「やっぱり地球は青かった」と言われて、
「いや、全然そんなですよ。地上の当事者からしたら海も周りにないですし、ビルとかアスファルトの退廃的なグレーが滲むばかりでゴミも多いし本当につまらない色味ですよ」
と謙遜する人はよっぽどいないだろう。だいたいこんな感じだと思う。
初めて地球にやって来た宇宙人に「すごくいい星ですね。緑がまぶしくて」と言われて、とりあえず「どうもありがとうございます(特定の笑み方)」って言っているくらいの温度というか。
それは全くの他人事でもないが、だからといって実感が生じるほど自分事かと言われるとそうでもなくて、寂れた観光地の温水プールみたいな温度だ。少し体温に近いのに、かえって冷水よりも身体から離れていると感じる変な温度。遠いぬるさ。
この意味で「恵まれた環境で育っているために自己肯定感が高く、そのせいで謙遜をしなくて済む」という都市伝説みたいなノリで根拠なく信じられている褒め受容のシステムは、結構な割合で幻想ではないかと思う。「高い自己肯定感」と「謙遜しない感じ」を両立している人はいるとは思うけど、その二者にシステム的な相互性は特にないというか。
そして、こういった発想(幻想)をもっていると、褒められたときにスッと受け取れない自分がなんだかイケてない、正しくないことをしている気がして自罰的になり滅入ってしまうので、精神衛生上もあんまりよろしくはないのではないか。
褒める行為って結構ひとくくりにされがちだけど、誰にとっても受け取る難易度が高い「褒め」もある。それは
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