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「結婚」の実力者

 以前恋愛のブームはもう終わっているという記事を書きました。

 内容を簡潔にまとめると以下のような感じです

⑴近年まで社会全体で漫然とやるものだろうとされていた「恋愛」は、現代の感覚には合わない異性への無理解と誤認(加えて同性愛等の排除)からくる幻想の投影がベースにあったので自然体では成立しづらくなってきている

⑵当たり前とされてきた「恋愛」が無くなるわけではないが、「自分からやりにいく」前提を相互に理解したサービス精神のある実力者同士にしかできない茶道のような奥深い遊戯になっていくだろう

⑶どちらかというと、特に実力がない人も全員「恋愛」ができると思っていた今までの方が変だったのではないか(筆者の考え)


 この記事から3ヶ月も経過していないのですが、執筆当時よりもさらにもう恋愛のブームって感じではない雰囲気になっている印象があります。
 直近でも、2022年の国内出生数が想定より11年も早く80万人を割り込むことがほぼ確実になったとの報道が話題になりました。

 誤解を避けるために述べておくと上記の記事は「恋愛がいかに終わったコンテンツか」という話をしているのではなく、「今までは恋愛のブームが(下火になってはいたが一応)続いてはいたので多くの人が恋愛できていたけど、もうブームが終わったので今後は恋愛の実力者(他人に夢を見せる/こちらから見にいく能力が高い人物)しか恋愛ができなくなるし、そうなってからが恋愛の本場所」という話をしています。

  実際、私は恋愛のアンチではなく、それどころか実力者同士の本気の恋愛を見るのは大好きです。恋愛をやっている人の中ではかなり少数派ですが、独自の実力で「ラブラブ」な2人を見ると非常にテンションが高まり応援の獅子舞になりたいような七色の竜になって金色の餅をバラまきたいようないかんとも説明しがたい猛烈な舞い上がりに包まれます。
 このテンションの上がり方は当事者の実力が高ければ高いほど比例して上昇します。好きな方を否定するつもりは全くないのですが、例えば映画『タイタニック』のような恋愛は実力が不要なのでしらけます。与えられた条件が理想的で「やりにいく」余地が全くないし、万人から見てなんの文句もない最初から結論が出ている状況だからです。筆者からすると、あんな恋愛はピサの斜塔から落とした球体が万有引力に引かれて落下していくのをただ見学しているようなものです(映画としては面白いと思います)。

 それよりもオリジナルの夢想を現実の人間関係の中に見いだして全てを焼き尽くすような熱情と度を超えた正気の果てに夢想が現実となり一人歩きを始めてしまったようなハイパー実力ダイナミックカップルの様子を見るのが大好きなのです。

 具体的に申し上げますと、直近では竹内直子先生の原画展(『美少女戦士セーラムーン ミュージアム』現在は会期終了済み)を見てものすごくグッときました。
 月野うさぎとラブラブの当事者である地場守は誰がどう見てもディズニーの恋愛歌舞伎(筆者は『リトル・マーメイド』などに見られる極端に誇張された恋愛の叙情がアニミズム的な生命実態を画面全体に伴い語りかけてくる過激な恋愛表現をこう呼んでおります)にも引けを取らぬ実に明らかなパーフェクトラブラブカップルであって、一見オリジナルラブラブの要素がないように思われるかもしれません。その点は大変申し訳ないのですが、この場合は「結婚」に対する尋常ではない熱情と度を超えた正気(絶対にやりにいく強靭な実力のエネルギー)が描かれているのに気がついてグッときたのです。漫画を読んでいるときはそこだけに注目することは特になかったのですが、原画で見ると「結婚」といういわば単なる事務手続きに対してここまで見果てぬ夢、平行宇宙を横断してでも絶対に永遠を誓わずにはいられない空前絶後の途方もない願いの強度が唖然とするほどに伝わってきて、そこまでの心の準備がなかったので立ち呆けてしまいました。セーラームーンという物語が問いかける複雑かつ困難なテーゼが正直どこに向かっているのか筆者には解釈できていなかったのですが、原画を見て

「もしかしてこれは、結婚に対する見果てぬ夢の途方もなさを描くためにここまでの(輪廻転生、森羅万象みたいな規模の)スケール感の舞台が与えられていたのではないか」


と感じたのです。

 それが著者の意図に沿っているかどうかはまた別の話ですが、全然難しい話ではなかった。なんで幼少期にセーラームーンのアニメを見たときにはこのシンプルかつ美しい解釈ができなかったのかというと、筆者にはここまでの「結婚」の実力が(より正確には「結婚」をやりにいく実力や興味が)なかったのでわからなかったのだと思います。おそらく同時代に熱心にセーラームーンを見ていた人の中には「結婚」に対するすごい実力者もいたと思うのでそういう人にとっては(成就できたかどうかは別として)なんら困難に感じることなくすんなりと全てが理解できていたのではないか。
 なんというか、途方もない話です。小学生が程度の大きさを表現するために「懲役恒河沙年」みたいな戯言を口にすることがありますけど、実際にそれを超える規模の「憧れ」や「ときめき」を描こうとしていたわけですから。ときめきとかキラキラって軽く考えられていることが多いような気がするのですが、軽いわけがないんですよね。非常に重い(迫真に迫るシリアスな態度である)。しかもこの場合戯言のような夢物語ではなく現実的にそれをものにする覚悟が込められているわけで。本物を本気でやっている人の覇気に畏敬の念を抱きました。

 でも確かに、冷静に考えると「結婚」するってなんかもうそれくらいの話だよなって気がします。というか、結婚のブームの渦中で結婚をするのであればそこまで突き詰めなくても成人式、就職の次くらいのイベントとして(それが得意な人は)思考を無にしてGOしていけるのかなと思うんですけど、それが特にブームでない場合、どうか。
 おそらく各々がセーラームーンくらいの「ギア」の入れ方をしないと「結婚」とかいう謎の儀式に飛び込んでいくって言うのは難しい気がします。よく既婚者の方が「結婚は勢いなんだよ」ということをおっしゃいますが、私はもっとカジュアルな勢いを想像していました。しかしおそらく語られないよくわからん記録には残らない領域にもっとすごい「勢い」があるんじゃないか。
 つまり、それがいずれ失われるにしても、瞬間的には全ての平行宇宙の惑星が直列に数珠つなぎになるくらいの規模の「やりにいき」が発生しているのではないか。個別の事象は理解しかねますが、筆者としてはこのように想像しました。

 ところが、このような平行宇宙の全惑星直列つなぎ現象が起こらなくてももっと全然カジュアルに合理的に税制上の優遇を主目的とするくらいのノリで結婚をしている人もいますし、こちらの方がむしろ主流であるように思われます。この場合になにが起こっているのかというと、おそらくそこにあるのは商取引です。別に、「性的価値と貨幣の交換が起きている」といったすごくつまらない話(物事を見る尺度が限定されすぎていて何も語れていないに等しい意見)を繰り広げるつもりはありませんが。そんなことよりもっとずっと根本的な段階で我々は恋愛とビジネスの区別が全然つかなくなってしまっているのではないか。もっと言うと、よりビジネス要素が強い取引に対して「恋愛らしさ」「盛り上がりのムード」みたいなものを感じているのではないか、と思うのです。

 加えて申し上げるならば、このような「実力(主体的に価値づける能力)」を度外視して経済実態活動を経由した行為だけにしか「マジ度」を感じ取れなくなっているのは恋愛以外でも割とそうなのですが、恋愛が実態が希薄になっている分、最も深刻にそうなっているように感じます。

・お金を払うから楽しい

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