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「突然の熱海」をやりにいく、コントローランブルな主体概念としての「30代女性」

【「プレーン」とわたくし】

 私はある時、突然飲食店で「プレーン」を選択できる自分を発見し驚きました。それまで、つまり27歳くらいまでの私は、飲食店で「プレーン」を選択することができなかったのです。いや、「できなかった」は語弊があるでしょう。より正確には、そんな選択肢もあるとは知らなかった、というか。

 例えば餃子の専門店であれば、「プレーン」の餃子を注文するという選択肢はハナから存在しておらず、なにかメニューの中でも「エビニラスープ餃子」などと言った最も特別な感じの餃子を注文するのが常でありました。なぜなら、私は自分が特別な存在だと思っていたからです。ここで言う「特別な存在」とはヴェルターズオリジナルの CMにおける「特別な存在」と全く同じ意味合いです。つまりは「今この場で生きているこの私はここにいる私以外にありえない、代えが効かない当事者として唯一無二のわたくし」という意味合いです。他人からすればありふれた人間存在に過ぎませんが、当事者としては誰しもが常に特別なのです。そういった特別さを踏まえた上で、市販の特別な飴によって普遍性と代え難い当事者性を同時に得るというヴェルオリの精神性は極めてクールかつ画期的であると言えるでしょう。この思想体系は私の行動原理に大いなる影響を与えました。

 私は生まれた段階で、長子の姉と年子の次女であって、「一姫二太郎」的な、昔ながらの俗説的状況を期待していた両親から常に直接的には表沙汰にされない水面下のガッカリムードの圧のようなものを感じ続けていました。その為、自分で自分にスペシャルな待遇を施さなければ気が済まない「特別な存在」のアスリートと化してしまったフシがあります。産まれた瞬間から大人がガッカリしている顔をよく見ていたので、今でもガッカリしている人物の絵を描くのが得意です。「特別」という強い光と、「がっかり」という濃い影を組み合わせることでかなり上手くバランスを取ってきたのではないでしょうか。これは私の人生における大きな成功体験と言えます。従って、いかに内的なパーティータイムを外界にバレないように開催するか、特別さを自分自身の手でゲットするかという側から見れば牧歌的ですが、本人にしてみれば深刻なデュエルを長年に渡り繰り広げていたのでした。

 このように「どうすれば今、この瞬間が特別になるか」ということを突き詰めていくと、それは「差異」に帰結します。差異とは。つまりそれは普通である、一般的である、平凡である、日常的な状態と差異があるということです。ズレている、逸脱している、イレギュラーであるといった。

 重要なのは、追求する「特別さ」が他人から特別に見えるということではなく、あくまで自分にとって「特別」という点です。例え他人からは信じられないような日常であったとしても、マリーアントワネットにとってそれはマナーや態度を厳しくチェックされる極めて平凡な日々繰り返される審判の場としての食卓に過ぎない状況かもしれません。私にとって特別な状況とは、私にとって逸脱し、日常から差異があり、私自身の心を浮き立たせエネルギーや輝きの源を与えてくれるような状況のことなのです。


「普通がいいんだよ、普通が一番」


と、したり顔で言われたことがありますが、他人にとっての普通など私は知りませんし、関心の持ちようがありません。そもそも私はその内実を全く知らないのですから。

 ところがこういった私自身の考えは徐々に覆されるようになります。なぜか。それは、私自身の人生の体感時間が増えるにつれて、日々の体感が極限に相対化されていく為に、差異や逸脱がない存在、つまり「プレーン」に対して自分の中で位置付けを発見できる、言い換えればより微細なところにある「差異」を見出せるようになったからです。「違いがわかる人」というフレーズが贈答品の広告に用いられることがあります。少々鼻持ちならない印象の表現ではありますが、「違いがわかる」とはどういうことなのか、改めて考えてみるとそれは「逸脱をせずに特別である」ということになります。ちょっと待ってくれ、特別とは差異つまり逸脱のことではなかったのか、と思わずにはいられませんが

 実は連続的なものとしてあらわれている「平凡さ」の中にも「特別」は見いだすことができるのです。

 なぜか。それは、一見「平凡さ」として立ち現れている連続体は、実のところ全く連続的ではなく、コマ撮りアニメーションのように独立した瞬間の総体でしかないからです。「平凡」な「日常」や「繰り返される安穏とした日々」という幻想は徹底的にまやかしであります。しかし人間は「連続体としての時間」という幻想が、幻想であることを認知し続けることはできません。できませんが、経験を積み重ねることによって、時間というものは掛け替えなく切断された、どうにもならないくらいに散りばめられた情緒のダイヤモンドダストの総体であるということを頭の片隅に置いたまま、徐々に平然とシャツにアイロンをかけたりメールを返信できるようになってくるのです。これが広義には「違いがわかる」状態というか、全ての瞬間が差異の断片にすぎないことを理解しつつ、幻想としての社会的な時間軸を同時に受け入れられるようになってくる。勿論、そうではない人もいるでしょう。しかし、より成熟するにつれ時間をより大きな物差しで相対化することができるようになる為に、「とある瞬間のかけがえのなさ」と「普遍性」が矛盾なく両輪として機能するようになるのです。

 これが人間が成熟していくことで得られる大きな利点の一つです。一般的に、幼少期、あるいは思春期は過度に美化される一方で、中高〜老年期を過小評価する風潮がありますが、実は成熟で得られるメリットにはこのように著しく甚大なものがあるのです。観念的であるためにあまり語られることはありませんが。

 私はこのようにして20代後半から徐々に今まで目の前に現れていなかった選択肢が現出していくのを目の当たりにしました。思えば10代のころは、ただの炭酸の水のことを「ガス」などと呼ばわり、大金(りぼんマスコットコミックスが二冊買える程度の)をはたいて注文する相対的年配者が極めてバカバカしく感じられたものです。味がついている飲み物を注文してから喜べばいいのに。ところがこのような考えは人生における比較的初期段階(二十歳前後)で覆されることになったのでした。「ガス」は確かに特別ですし、一方で平凡と言える要素も含んでいます。「違いがわかる」の初級問題と捉えてよいでしょう。「ガス」にかけがえのなさと普遍性を同時に見出せるようになったら概念としての「30代女性」に足を踏み入れかけているといえるでしょう。インドカレー店でマンゴーラッシーではない「プレーン」のラッシーをセレクトしたあなたも。

【なぜ「30代女性」なのか】

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