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詐欺のブーム⑵ 免罪の構造
・「いい人」って言い張れば「いい人」ってことに一応してもらえる世の中
「ギルトフリー」っていう言葉は目指しているものがあまりに露骨というか、言葉を作ってしまうとかえって剥き出しの欲望が表立ってしまうせいか、そこまで大きくは流行らなかったけど、態度としてのギルトフリー的なあり方ってどんどん増えているよなあと思う。これは詐欺のブームと決して無関係ではない、というよりは同じ現象の別の側面なのだろうと感じる。特に工夫をせずにギルトフリーでいられる領域が広がった結果、割と誰でも(つまり犯罪の才能があまりなく、それなりに平凡な良心を抱えて生きている人間でも)ある程度ギルトフリー的な態度で詐欺っぽい、あるいは間接的にそれらに加担するような行為を行えるようになってきている。
空港とかに免税店ってあるけど、免税店と非免税店みたいに、免罪店と非免罪店があったら誰でも免罪店で買い物をするのが当たり前だと思う。だから仕方ないといえば仕方がないのかもしれないが、「(自分の行動は何も変化させずに体裁上)いい人でいたい」という欲望は、この世で一番強欲で犯罪的(自己の利益以外の事情に無尽蔵に盲目的になれる態度)なんじゃないだろうか。「いい人」という認定さえ得られれば、いくらでも得ができるし、やりようによってはお金が儲けられるし、全てにおいて有利な解釈が通用する。ある一定程度を超えた良心の欠如によって、偽りの善性を表明することで、ある分野の「いい人」としてメディア出演を果たして行動の裏付けや保証を得ることもできてしまう。しかし、こういった強欲かつ傲慢な振る舞いは、「(無尽蔵に免罪され無根拠に)いい人でいたい自分は、すなわちいい人である」という破綻したトートロジーによって無理やりにでも補強されているように見える。そこまでして免罪を得て、一体なんになるというのだろう。
しかし私のこのような考えは、まさに周回遅れも甚だしい。最前線の「いい人」コロシアムにおいては、誰も目の前の現実、出来事、行為の話をしていない。すでに「いい人」バトルはかなりの高次(誰もがトンチキ解釈を平然と押し通す)領域に到達していて、
・自分のある行為によって申し訳ない気持ちになる可能性を感じて心を痛めるそぶりをする
・あるいは自慢になってしまうような自分の強者属性にあらかじめ心を痛める可能性を示唆する
・実態が不明瞭な為に、誰も実態に口出しができない新しい価値観の存在を示唆する
・全ての事柄について免罪されたい気持ちを最大限叙情的に表現する
・良心があるけど生きる為に止むを得ず良心に反する行動を取る自分を示唆する
など、最高裁判所で行われる法解釈よりもはるかに難易度の高い「いい人」解釈バトルがもうすでにいたるところで行われている。こうなってくると、もう図々しい人(物事を最大限自分にとって都合よく解釈した上でPRできる図太さがある人)の勝ちでしかないから、そういう人にとってはこの世がある程度パラダイスに(あるいはソシャゲのように)見えるのかもしれない。
ところが、この免罪パラダイス(メンパラ)には露骨な落とし穴が存在している。それは、自分を無尽蔵に免罪したいという情緒に対して素直に直情的に行動していると、いつの間にか詐欺師になってしまう上に、詐欺によって負った罪は誰も免罪してくれないという致命的盲点である。なぜ詐欺師にはこのような構造上、あるいは社会戦略上の死角が生じるのか。
・一見出し得であるように見える「いい人」カードは、実は諸刃の剣
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