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ショボい本物を抱きしめて
・なにかを言ってくる人
映画の感想を共有するSNSで自分が観た感想を載せたら
「最後はどっちにも見えるようにしたのかと思いました」
といメッセージを送ってくれた人がいた。なるほど。
なんの立場だそれは
と思った。どっちかで見ろ。いや、見なくてもいい。別に楽しみ方はひとそれぞれなんだから。私だって、食べログを評価目的ではなく脱線(ファミコンのゲームソフトに対して今更行われる辛口評価、長渕剛のライブの詳しい感想など)目的で観覧していることの方が多いのだから、なにか人のことを言えるほど性格が純真無垢ではない。むしろかなりその逆ベクトルというか。
ただ、そう考えたとして、わざわざ人に言う必要はないだろ、とは思う。なぜなら私が他人の感想を通して知りたいことがあるのだとすれば、それはその人物がどのような視点でものを見た結果、どのような「マジ」が生じたのかというその一点だけであって、それ以外の、つまりマジ以外の話をされるのははっきり言ってしまうと迷惑だから。眠たいだるいつまらない皮膚の表面がジリジリして時間がグニャーッとガムみたいに伸びていって、その末端で意識が時間軸を後退していく、歯痒さ。やるせなさ。根本的に追いつけない世界の実相にますますいよいよ置いていかれて、呼気に宿るビリビリした震えが空っぽになる焦燥感。ただ風船のように膨れてしぼむ肺胞のむなしさ。私はそういうのを浴びている。もっといよいよ速く、こちらが伸びていくガムの切先になって対象に刺さっていかないと全部に置いていかれてしまうだろ。冷静な感じの感想なんて、味のしないガムでも噛んでいた方がマシなくらい張りがない。そもそもの問題としてどこからでも見えるような場所に共有なんてしない方がいいのかもしれないが。
マジの感想はそれが激烈であったり爆笑であったりしても、常にどこかしら「切ない」と人々に言い表される感情に設置している部分があると私は思う。切ないという言葉は心が擦り切れそうな情緒を表現するところに語源があったとか言われている。しかし、そうなっているときの身体の様子をよくよく観察すると、意味内容の根幹を担っているのは「切れている(切れそうになっている)」点よりも「(完全には)切れていない(それが叶わないままでいる)」部分にあるんじゃないかと思われる。
要するに「切断しきれない部分、抱えざるを得なくなった部分がある」ということが切ないという言い回しに込められたメインの主張じゃないだろうか。なんでも、切断できてしまえば楽である。しかしそれができない。どうしてもできないまま神経が引き延ばされて、さまざまな残留思念を貯蔵し、合理と反目するその様。を、我々はおそらく「切ない」と言っている。
なんでどうして切断できないのか、というとそれは元々切断なんてできていないからだと思う。切断できているという認識の方が幻想というか、社会運営上利便性が高い「設定」である。しかし一旦は切断しないと人間は同じようなところで堂々巡りを続ける自閉的な空間に自らを放逐するハメになるから仮の処置としてひとまずの切断をしなければいけない。推定する、仮定する、断定する、憶測する、何か言い切って裂け目を入れてみようとする。そういうひとまずの試みのあとに噴き出してくる無数の情動、切断しきれなかった情緒に価値があると私は思っている。これが生じてくるのは本気で切断を試みているからで、つまり自分の中に動機とか、根拠のある感情に刃物を向けるっていうリスクを負っているからで、それはつまり「切ない」からで、切なくないことしか言っていないのに切ない(切断しきれない)ことを言っている人と同じ、最悪ワンランク上みたいなことを言っている感じを出している人と会話するのがマジでごめんなさい、言ってしまえばその時間を命にいれるのがいやだ。
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