我々はAIと同化できるのか(映画「花束みたいな恋をした」感想)
「花束みたいな恋をした」を観てきました
私は巷で話題になっている流行りの映画をブームに乗って観ておきたいというタイプなので、普段恋愛映画はあまり観ないのですが今話題になっているという知識のみで映画館に足を運んでみました。
【※深刻な意見となります】
私にとっては退屈な(しかしながら示唆に富む)体験でした。
これは自分にとって実体験的に楽しめる内容の映画ではなかったというだけで映画の質が低いだとか、他人にとっても楽しめる可能性が低いという意味では全くありません。
以下にそう感じた理由を述べます。
(ネタバレあり)
そもそもこれはどういった内容の映画であるか、一言で掻い摘んで説明してしまうと
「つまらない人間とつまらない人間がお互いの同意の元交際関係に発展し、4年後にドーパミンの放出が収まった段階でお互いにつまらなくなったのでつまらなくなったことを相互確認し交際関係を解消する」
とうものです。
いかにもつまらない要約となったのは、私にとって実体験的に楽しむ余地がなかった為ですが、じゃあ観て時間の無駄だったのかと言われればそうではありません。
【〜どうしてこなったのか〜】
なぜ主役の二人(男性・女性各一名)がつまらないと言えるのか。
それは、解釈を持たないからです。
作中で時代性にオーバーラップするように無数の映画、漫画、ゲーム、演劇など多数の作品が紹介されるのですが、どう好きなのか、なぜ好きなのかという解釈、またそれぞれにとって作品に対する位置づけや視点の付与という行為が一切見られず受動的に消化しているといった印象です。
では、何故わざわざつまらない2人の人物がメインキャラクターとして配置されているのでしょうか。ここに何か意図がある筈ですが、劇中で分かりやすく意図や目的が語られることはありません。
従って、私の解釈を以下に記述します。
序盤で、女性キャラクターが長年愛読していた恋愛ブログの書き手が自殺したというニュースが報告されます。そこで提示されている問題は
・恋愛には賞味期限(ドーパミンを放出してくれる期限)があり、それが終了した段階で再生不可能なものになる
というものです。女性はここで現在の恋愛関係に猜疑心を抱き、結果この猜疑心は解消されないまま自らも想像した通りの結末を迎えることになります。
結末に向けて提示される選択肢は2点
⑴新規の恋愛によって再びドーパミンを放出する
⑵ドーパミンの放出されている状態による幸福感を非日常的感覚と認識し、ドーパミンが放出されることのない無味乾燥とした状態を平生のものとして捉える処世術を採択する
です。
結果両者は
⑴新規の恋愛によって再びドーパミンを放出する
を選択することになるのですが、これでは冒頭と同じ状況に回帰しただけであって、むしろ執行回数に限りがあることを考慮すると当初よりも問題は悪化、後退してしまっていると言えます。
つまり、分かりやすく何度も提示された以下の問題点
・恋愛には賞味期限(ドーパミンを放出してくれる期限)があり、それが終了した段階で再生不可能なものになる
が全く解決を見ないまま、解決の糸口すら見出せずに一先ずの結論を迎えてしまったという事になります。
タイトルの「花束みたいな恋をした」の花束が何を指し示しているのか。汎用的な見方をすれば「いい思い出」という事になりますが、そんなつまらない話に2時間付き合わされて納得できる訳がありません。もっとこう、何かがあるはずです。
映画のシナリオのセオリーで考えてみます。
本来、このストーリーの構造からすると劇中女性・男性其々に変化が必要なはずであって、順当な作りであれば「受動的な消費者として解釈を持たない彼女が自分なりの視点・他者への評価軸を獲得していく」というプロセスが描かれる筈ですが、これが無かった。
ここに映画として意外性があります。
それは
この映画を目撃している貴方はどうなんですか?
という問いかけ、一種の揺さぶりをかける目的であってだからこそ注意深く観客の意識や経験とオーバーラップするように現実と同期した作品が配置されていた
ということになるでしょう。
しかし、この揺さぶりは一体どのような目的意識を持って配置されているのでしょうか。
一つに恋愛映画の文脈への反抗、つまりリアリズムを今までにない強度で配置しようとする反骨精神の実現、そしてもう一つに現実的な恋愛関係のシミュレート体験を通して不毛なプロセスを通過する擬似経験を与えるという目的意識ではないのかと考えられます。
だとしたら、かなり意地悪で親切な映画ですよね。
不毛なプロセスつまりいい思い出ができたからいいじゃんという忍耐の獲得を目的化する態度を除いては、私たちはどのようにこのシミュレーションの範疇を脱出するのかというヒントが一切配置されていない訳ですから。
さらに意地の悪いことに、この映画には現在の状態を保ったままここで描かれるシミュレートの範疇からの脱出ルートが全て塞がれているという徹底的な態度が見られます。具体的には、貴方を助けてくれる男性はどこにも存在していません、全てにおいて興奮と枯渇の円環に閉じ込められていますよというメタメッセージがさりげなく入念に配置されているという点です。
360度、全方位遮断機。
タイムリープものの主人公になったみたいです。繰り返される興奮の枯渇。時間は戻らないので試行回数は限られています。撤退するのか、踏み込むのか、繰り返すのか。色あせた思い出のドライフラワーの束だけを抱えて死んでいくのか。
この問題への極めて単純な回答は、「自分で物語る」という事です。
この回答を主題へのアンサーと捉えるとそんなことは予め了承済みの客層にとってはこの映画が直接手渡される範疇からは外れているということになります。自分で物語るとは配置されたコンテンツを自己解釈し、自ら興奮を発生させていくという認識の転換をするという意味です。
しかし、こんな単純な回答が映画の製作における意図であるとは到底思えません。だったらもっとシンプルで分かりやすい(悪く言えばありきたりな)作品になってくる筈だからです。
半ば強引な形ではありますが、この形でしか物語れなかったテーマを自分なりに抽出するとすればそれは
我々はAIと同化できるのか
ここから先は
¥ 400
よろこびます