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「伝える力」ってなんですか問題(前編)
・「伝える力」に対する過剰な期待
「伝える力」みたいなものがここ10年くらい流行しているように感じます。理由は単純に個人がネット上で発信をする機会が増えたからだと思うのですが、
「うまく伝えられません」
「自分の考えを伝える能力が欲しい」
「言語化できるようになりたい」
といった、いわゆる「伝える力問題」について、私は違和を感じ続けていました。なぜならば、その根底に
「十分な伝達能力(就職活動におけるコミュニケーション能力のような、社会的に評価される定量的技術力)さえあれば、心に沈殿したモヤモヤしたなんだかわけのわからないものは伝わるだろう」
という発想があるように思われるからです。
実際には「伝える」という行為の途方も無い困難さは、そのぞれの人間が持っている文脈や体験の違いに由来するもので、高い技術力があれば伝わるわけではありません。むしろ伝える側の伝達能力はオマケのようなもので、受け取る側がいかに解釈できるか、読み取れるかという点が肝心です。
したがって、伝える能力について考える場合もプレゼンの手腕について考えるより先に「どう読むか、解釈をするか」「どう読まれうるか、どう解釈されうるのか」について考えることが重要なはずです。
しかし、この「伝える」という、そもそもままならないことを前提にしなければ失敗か不誠実のどちらかにしか着地しない問題に対応するものが、常に「能力」一本ヤリで解決しようとする発想(過激な能力主義)になってしまっている。この点が納得がいかないのです。そもそも、我々は「伝える」行為によってなにがしたいのかわからなくなってきているのではないか。
・「伝える力」全般に対する強烈な違和
「伝える力」に対する信仰を具体的に(少々誇張して)表すと以下のようになるのではないでしょうか。
⑴この世には思ったことをうまく伝えられない凡庸な人間と「問題抽出能力」「抽象思考力」「言語化能力」「プレゼン能力」といったビジネス書的能力を豊かに備えた言語化エリートがいる。
⑵言語化エリートは鍛え培った高い能力によって心中に渦巻く思いの丈を常に適切に伝え、モヤモヤで心中を濁らせることなく、爽快感のある人物像と金銭と社会的立場をダブルで獲得し恵まれた人生を送っている。
⑶つまり、モヤモヤの解消と出世は伝達力で解決可能と思われるので、なんとかして高度な言語化能力を得たい。
つまり「私が私であることのヤバさ」と「社会的な成功を獲得しなければならない焦燥」という(実際は真逆の性質を持つ)二つの問題が「伝える力」という曖昧な物言いのせいで混同したまま扱われているところに問題の根本があるのではないでしょうか。
・言語化したところで
ようするに言語化という能力が、「私がわたしとしてこの世に生まれてきてしまった不適切な状態を一挙に解決するエリート能力」のような扱いをされているということになります。この場合の「言語化」には次のような期待が全部込められているように思われます。
①私という人間を正確に伝えて、その価値をコミュニティーの人々に証明してくれる(個人の問題)
②集団と個の間に入ったいくつもの断裂や裂け目を修復してくれる(関係の問題)
③安心していられる立場やポジションのようなものを作り出してくれる(社会の中で生き延びる術の問題)
要するに
①「個としての根本的な不安(自分の経験や体験を誰も肩代わりできない困難さ)の解決」
②「集団からの丸ごと包み込んで理解されるような承認」
③「個と集団がお互いを阻害せず並存することで生じる価値の獲得」
の三点が同時に起こることが期待されている。でも、そんなわけがありません。
なぜなら、心中に抱えるアヤフヤなものを言語化をすればするほど個人と集団の間で亀裂は深まる(=面白くなってしまう)から
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