存在を愛せないから、役立とうとする私たち
現代は、存在を愛することが難しい時代だ。
とにかく仕事でも生活でも、読書でも何でも、やりきったな、というときは、それをやってきた自分自身が尊く感じる。しかしこの「尊さ」を誰かに話そうとすると途端に難しくなる。「なんか、今日よかったんだよ」「充実してたというか、気持ちよかったんだよ」とか、掴みどころのない言葉を言うしかなくなる。
存在は絵の具同士を混ぜるようなものだ。単独のものからは生まれない。麦わら帽子を手先で触れ、佇む少女を描いたとして、周辺の風景が何も無い「無」というのは多分無い。(敢えてそう書くのはアリかもしれないが)夏に揺れる並木道とか、向こうに海が見える下り坂とか、そういった背景を書くだろう。少女のいる世界に、絵の中に私たちを引き込む存在の妙がある。
逆に、存在に縛られることもあったかもしれない。この水準の生活の人はこれくらいのものをこれくらいたくさん食べて、こういうものを身に付けて、こういった場所に旅行して、これこれを買って、こんなところに住んで……色々な絵の具を混ぜているのに、できる色は案外皆似たり寄ったり、という厄介もあったかもしれない。単一な多様性。案外こういうのは今も別なところで、根強く続いている。
しかし今は、清潔でスッキリした部屋(と言って物が無いわけでもない)で人が死んでいる時代だ。周辺の地域環境も決して荒れていなかったのに。「こういうところに住んでいる人は安定して生きるはずだ」の「こういうところに住んでいる人」と「安定して生きるはずだ」が切り離されてしまい、「でもとにかく口に物は入ってなかったんですよ」と、無造作に死の理由が告げられる。
あらゆる物事が単色であろうとし(またはあることを強いられ)巨大な存在の文脈から切り離されている。そうなるととりあえず「役に立とう」とか「生産性」とか言ってみたりする。巨大な存在の文脈に戻ろうとする運動も起きるが、それ自体が単色だと意味が無い。結局コンピューター時代の「役に立とう」とか「生産性」の劣化版しか生まれない。とにかく寂しいんでしょ?と。
人間もビルも生活も景色も仕事も芸術も現在も未来も孤立させられていく。そして孤立すればするほど、掴みどころの無い砂の塊にしがみつこうとする。
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