お金が嫌いな米国。お金が好きな日本。~日本資本主義文化小史~

 多分米国では、お金は世界でもっとも「お金らしく」振舞った。「マニー!マニー!」と叫びながら、米国だけでなく世界をドルは飛び回り、世界の発展に貢献したのと同じくらい、いや貢献以上に、人々や環境や生命に禍根を残し、振り回した。そうなればさすがに「そんなのくそくらえだ!」という人が少なからず出てきてもおかしくないだろうし、「せめてまともな金の使い方しろ!」という人もいるだろう。悪魔が増殖するほど神が求められ、苦難が信仰を鍛えるようものなのかもしれない。

 しかし日本では米国ほどにはお金はお金の顔をしなかった。安定とか家族とか、そういうものと少しは歩調を合わせ、時間の中に沈殿した。だからこそ皮肉と言うべきか、日本人は「お金は人生で絶対一定数必要だし、お金を稼ぐにはかなり真剣ではないといけない」と思うようになった。お金と仲良くなり、妥協したわけだ。そして米国以上に他人を助けることに消極的な自己責任社会となり、お金みたいな表情の人も増えた。日本人にとって、お金は優しい顔をしているように見えたのかもしれない。

 有名アーティストによる寄付文化。レッチリ等の超大物アーティスト達のサンダース支持。レイジアゲインストマシーンといった存在。米国の多くのアーティストは反戦を叫ぶと同時に、時に唾を飛ばしながらお金と権力の不条理と向き合っている。ヨーロッパもそうなのだろう。それなりの規模の抵抗の文化が生まれ、それは気づけば5年前や10年前には想像していなかった規模になっていたりする。権力者の吐く金の唾は結局ただの汚い唾じゃねえか、という嘆きが聞こえる。

 日本もたしか2000年代は、宇多田ヒカルやGLAYやラルク等メジャーな存在含め、数多くのアーティストが、反戦を唱えたり、そういうテーマで作品を作っていた。一定程度、米国というものへの懐疑が日本社会にあったと思うし、格差問題(貧困問題)もクローズアップされ、2000年代末には民主党政権も生まれた。あの時期の積極面と限界は、もっと研究されていいと思う。

 しかし「格差問題」などのお金の問題をどうしていくか、というのがどうしても弱いまま、ここまで来てしまった感はある。私の印象としては、「自己責任論」に対し、理屈や論としては正しいものを打ち出せても、それを社会的なムーブメントにするところまでは、ギリギリできそうでできなかった。2010年代になっても、「生活保護なんて甘え」「ナマポだーナマポだー」と騒ぐ頭の悪い人たちに対して、現場の人や専門家が「それはおかしい」と反論していた記憶がある。しかし気づけばズルズル日本は衰退を続け、じわじわと皆のお金は減っていった。「金無い」は私の身近でもよく聞く言葉となってしまった。

 これは余談だが、小沢健二がミュージシャンとしての活動を止めていたころ、反グローバリズムの絵本を出したり、ベネズエラのチャベス大統領を取り上げたりしたら、白けてしまったという。(TVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』)案外こういうところに、今の惨状になったヒントがあるのかもしれない。

 「九条改正は反対だが、フリーター問題についてあまり問題と思えない」という声はあったし(雨宮処凛『生きさせろ』)かつて小泉政権を支持したフリーターも多かったという。

 頭の中の理想は「お花畑」でもいい。しかしお花はしっかりとした土(下部構造)に植えないと、普通に枯れてしまう。

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