「毛沢東」を振り返り、今日本に忍び寄る破局を見据える 第1回
昨年末、中国は突如として、人々に制限していた「移動」を自由へ解き放った。一気に億単位が感染したとも言われ(①)、経済を動かすはずの工場は従業員の感染で止まり(②)、公式発表をはるかに超える100万以上の死者が出るとも言われた。(③)解き放たれた「移動」は火葬場に列を作った(④)
「ゼロコロナ政策」も主に欧米日からは批判的かつ奇異に見られていたが、政策転換もまた、批判的かつ警戒感を以て見られた。中国が何をしても批判する国々のご都合主義か、それとも極端から極端へ揺れる激動の中国史の再来か。
かつての毛沢東時代、自由な言論活動や党批判を許した百花斉放、百家争鳴が、「危険な右派」を抑圧するための反右派闘争に急転換した。急激な経済成長を目指した大躍進政策の失敗後、経済の調整政策で回復を図ったが、「資本主義、修正主義に走る分子」「あらゆる古い文化」に敵対する文化大革命が始まり、大躍進に近い悲劇がもたらされた。
毛沢東が死んで文革が終わった後は、鄧小平が最高実力者となり、資本主義に転換し、爆速での経済成長を成し遂げた。
国家や社会的な所有が最優先された時代から私的所有へなだれ込んだ時代。極端から極端に変化した国は歪みを抱える。安定と強権へ走る習近平氏も、正しいかは別として、彼なりのバランスの取り方に苦慮しているのだろう。
極端同士を行き来し混乱が少なからずあった中国の近現代史において、毛沢東や鄧小平といった指導者の内面は混乱していたのだろうか。焦っていたのだろうか。または現在の習近平氏はどうだろうか。
私はあまり焦っていたとは思わない。「なんで自分の思い通りに行かないのか」という浅い愚かさよりも、前人未到の領域に突入しつつも、絶えず現実との間で「調整」を行ってきたように思える。「調整」の狭間に屍が列を成していようとも、前人未到への試みを繰り返す残酷さは感じるが。
毛沢東の「調整」はあらゆるところに見られ、文革期も本格的な破壊と混乱には数年で決着を付け、革命に燃える青年を大量に農村へ追いやり(⑤)、文化財を保護し(⑥)、プラント導入等種々の開発を許可した。(⑤)対外関係でもニクソンのアメリカや日本と正常化に踏み切った。鄧小平は毛沢東の死後、「調整」を全開にすることで大発展のきっかけを作った。大発展を後押しした毛沢東の「遺産」は意外に多いようで、以下に列挙してみる。
①農村「搾取」の対価としての、地方含めた保健、医療、教育水準の向上
②(不十分な点はあったが)各種インフラ建設や石油等資源開発
③秩序があり統制が取れた社会
④工業化
⑤海外から借金をあまりしない事と日本との関係正常化で条件の良い援助や投資を受けられたこと(東欧、ソ連、第三世界は80年代以降本格的な借金の重荷に苦しんだ)
※ここまで参考資料の⑦⑧を参照のこと
そもそも、毛沢東が中華人民共和国の建国当初打ち出した「新民主主義論」は早急な社会主義建設を避け、私企業や私企業と国営の混合など幅広い経営を認めながら発展し、徐々に社会主義化するという論で、鄧小平の路線とあまり違わないという指摘もある。(⑨)
また、1950年代中盤に出した「十大関係論」は労働者個人が豊かになる事や技術革新による発展を力強く肯定し、地方自治については米国の州制度を参考にするよう論じる等、政治、経済、社会について幅広く活きた論を展開し、こちらも鄧小平の路線に影響を与えたという。(⑤)
毛沢東が自ら持っている引き出しを慎重に選択し続ける事ができていたら、反右派闘争、大躍進、文革等の惨劇は無かったか、犠牲が緩和されて、安定的に経済成長し、鄧小平以後の発展による歪みも緩和され、習近平氏が強権で資本主義の国家管理を強めることも無かったかもしれない。
それとも、国家という入れ物が壊れるんじゃないかというくらい思い切った政治をしなければ、「弱い国」を容赦無くカオスに放り込んで、見せかけの安定を演出する国際秩序で生き残れなかったのかもしれない。
習近平氏にしても、ゼロコロナ政策からの本格的な転換前にワンクッション規制緩和方針を置いており、政策転換後は次から次へと具体策を打った。(⑩)結果的には準備不足の誹りは免れないだろうが、異論や混乱を腹の内でどこまで許容していたか、していなかったのか、気になるところである。
もちろん毛沢東にしても習近平氏にしても、「調整」やワンクッション置く要素があったからといって、まともさの証明にはならない。毛沢東が死んで鄧小平が彼の過激性を全否定して、「遺産」を継ぎながら、更に経済重視をしたからこそ、今後上手く行くかは別として、習近平氏にバランスを取る機会が巡ってきたのである。
毛沢東の「調整」は彼の死を以て完成したのだ。
毛沢東思想の中に、強制や実力行使を避け、教育や説得の方法を主にして矛盾解決を目指す「人民内部矛盾」と、強制や実力行使を厭わない「敵我矛盾」があるが、両者の定義がバラバラとなり、混合され、恣意的運用がされた点(⑤)が、毛沢東の統治がまともにならなかった主要因かもしれない。
しかしまともでは無いことが、時に歴史の怪しげな美しさを醸し出すことがあるのは否めない。劉少奇が悲惨な末路を辿った数年後には、最も強大な敵であるはずの米国と関係改善に乗り出すのだから(主要敵の役割はソ連が引き継いだ)どこか秩序が無いようで整っているような、歴史のダイナミズムを感じる。
辺見庸氏は毛沢東が「全ては可変的で敵にも味方にも成りうる」と考えていたのではないか、と評したが(⑪)、彼からしたら地球自体が、人間の衝突が生むマグマがどこでも這い回る球体で、そこから「敵」「味方」を次々と見出しただけなのかもしれない。自身も認めていたように根本は「単純な人間」だったのだろう。(⑪)
しかし国家統制から資本主義への流れを、(苛烈な弾圧はあったが)中国よりは少ない犠牲で成し遂げた国がある。
それは台湾だ。
弾圧と差別的制度があったが、国家資本主義的インフラ整備を、戦前に日本は台湾へ行った。戦後は米国の援助があり、蒋介石の強権をバックに農地改革を成し遂げ、主要産業を国が握り発展した。そして米国の援助が打ち切られる前に本格的な競争社会へと離陸し、インフラや先端産業で国の関与も残しながら、世界的にも輝かしい経済的地位を手に入れた。民主化された現在では、同性婚導入や、コロナへの途中までの適切な対応等でも注目を集めた。(⑫)
強権が存在した(大陸中国では今もあるが)等、中国との共通点を見つけるのは容易であるし、寧ろ中国の発展から歪みをある程度取り除いたようなスマートさを感じなくも無い。「新民主主義論」「十大関係論」を中国も重視し続けていれば、「広大な台湾」に近づいていたかもしれない。
安易に国の優劣を付けるべきではないが、敢えて「何故中国は台湾になれなかったのか」という問いを立てた時に、米国の外交「ミス」という観点は外せないように思う。
1940年代後半には東西冷戦が始まっていたが、同じ時期に、毛沢東は米国に、米国が中国に投資し、そこへ中国人労働力を提供する提案を行ったが、無視されたという。1980年代以降を先取りするような提案との指摘がなされている。(⑬)ソ連は毛沢東支援に消極的で、蒋介石を承認していたようだから(⑭)、歴史に「もしも」を仮定するのはキリ無いが、中国と米国が手を組む道もありえた訳である。
そうなれば中国は「安定的な」路線を取ることで米国を信じさせて逆にソ連への牽制とし、新中国で起きた諸々の惨劇は起きなかったか、緩和されたかもしれない。(ベトナムのホーチミンも米国へ協力を求め無視されたというから、米国の側に柔軟性と大胆さがあれば、東南アジアの冷戦下の惨劇も減ったかもしれない)
国民党との死闘や党内闘争、日本との戦い、新中国建国後の対外緊張と国内での建設と失敗。あらゆる「戦い」を冷酷に勝ち抜いた毛沢東の内面には「怪物」が住んでいた。一方で現実を踏まえ、大胆な妥協や調整、更には理想を組み立てる「創造性」も持っていた。この二面性の同居が、彼が今も忌み嫌われながらも、世界の見えないところで影響力を残し、怪しげな輝きを放っている要因なのかもしれない。
(参考資料)
①
中国 コロナ感染者累計9億人 人口の6割余 北京大が推計 | NHK | 中国
②
ルネサスの中国主力工場、感染者相次ぎ操業停止…「ゼロコロナ」転換で陽性者増加 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)
③
中国のコロナ死者、来年100万人超えの可能性も、米研究所予測―米メディア (recordchina.co.jp)
※記事中のVOAは米政府の影響下にあるメディア
④
24時間火炉稼働する中国の火葬場…外には霊柩車150メートルが行列(1) | Joongang Ilbo | 中央日報 (joins.com)
⑤
毛沢東 実践と思想 - 岩波書店 (iwanami.co.jp)
⑥
中国文化大革命期における文化財保護をめぐる一考察 | CiNii Research
※かなり意外な事実であるが、最近上野で行われた日中国交正常化50周年記念の兵馬俑展示でも、文革期や毛沢東時代に出土したものも少なくなかったようだ。
⑧
What Chinese Capitalists Owe to Mao Zedong (jacobin.com)
⑨
⑩
中国「動態ゼロ」方針転換-中国政治に対する含意-|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ (www.ne.jp)
⑪
「完全版 1★9★3★7 イクミナ (上)」 辺見 庸[角川文庫] - KADOKAWA
⑫
台湾を知るための72章【第2版】 - 株式会社 明石書店 (akashi.co.jp)